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国際協力の現場から

国際協力の現場から2019/08/23

ピースデポ:被爆74周年、原水禁広島大会に参加



折鶴平和行進は平和公園から県立総合体育館のルートで行われた(2019年8月4日、広島平和記念資料館前)

 2019年8月4日から6日まで広島を訪れ、原水爆禁止日本国民会議が開催する「核も戦争もない平和な21世紀に! 被爆74周年原水爆禁止世界大会」(原水禁大会)や原爆ドームと平和記念公園周辺のイベントに参加しました。

 今回の原水禁大会は、7月27日、福島から始まりました。広島大会は8月4日に開会し、5日に広島市内の各所で講演会やフィールドワークを行いました。5日には、ピースデポから湯浅一郎共同代表が分科会「平和と核軍縮Ⅰ-沖縄で何が、起きているのか」に登壇し、辺野古米軍基地建設に伴う本土から搬出される土砂による辺野古埋め立て計画と沖縄の基地建設に関して講演を行いました。同日、梅林宏道特別顧問が分科会「平和と核軍縮Ⅲ-朝鮮半島の非核化と日本」と国際シンポジウム「-核兵器禁止条約採択から1年-東北アジアの非核化に向けて、日本は何をすべきか」に登壇し、北東アジア非核兵器地帯構想や北朝鮮の核計画、朝鮮半島の非核化と日本の役割について報告をしました。広島大会は6日に「中距離核戦力(INF) 全廃条約」の失効に抗議する特別決議と、「ヒロシマ・アピール」を採択して閉幕しました。各地の平和運動組織や労働組合だけでなく、国外からも参加者が訪れていました。7日から9日まで開催された長崎大会では、梅林特別顧問が朝鮮半島の非核化と日本について講演を行いました。


原水禁広島大会の分科会「平和と核軍縮Ⅲ-朝鮮半島の非核化と日本」。梅林ピースデポ特別顧問が登壇。(2019年8月5日、ホテルチューリッヒ東方2001)

 私は、ピースデポの仕事として、ニュースレター『核兵器・核実験モニター』574-5号(19年9月1日号)に掲載するために、「核政策を知りたい広島若者有権者の会」(カクワカ広島)代表の田中美穂さんにインタビューを行いました。カクワカ広島は広島選出の国会議員に直接会って、核兵器禁止条約への考えを尋ねる活動をしています。メンバーは会社員、カフェ店主、学生、アーティスト、看護師などが仕事を抱えながらも、核兵器廃絶のためになにかしたいという思いで集まっています。反核運動の「活動家」でなくても、核兵器のない世界のためにできることはたくさんあるということを体現したいという会社員の田中代表の言葉のように、この活動が一般の若者にもっと広がるといいなと思いました。

 広島滞在中、今年4月に本館がリニューアルオープンされた広島平和記念資料館を訪れました。たくさんの写真や絵や資料が見学者の想像力に訴え、原爆がもたらした壊滅的な非人道的結果を突き付けていました。原爆の被害を受けた備品展示ブースでは、原爆投下の瞬間まで命があった人達のその後の想像を絶する体験がガラスケースを挟んで伝えられていました。このような歴史を繰り返してはならないと思いました。

 広島平和記念公園には多くのモニュメントがありますが、1970年に建てられた韓国人原爆犠牲者慰霊碑が強く印象に残りました。広島で被爆した人々の中には、大日本帝国の植民地支配構造の中で広島に来ていて爆死/被爆された数万名の朝鮮半島出身者がおられるのです。その人々の無念さに思いをめぐらしながら、追悼しました。

 1945年8月6日にたまたま市外から訪問していた人、逆にたまたま市外に出ていて被爆を逃れた市民、8時15分が分かれ目になってしまいました。初めて訪れた広島で、原爆の無差別性を前にし、無力でなりませんでした。今も核兵器が地球に存在し続けている以上、広島の原爆の歴史が繰り返される可能性があります。広島の原爆から74年が過ぎても、未だに核兵器のない世界が実現されていないし、核兵器の保持を正当化する国々が存在しています。8月6日の朝は原爆ドーム前で黙祷し、慰霊碑の前で手を合わせました。二度と原爆の歴史を繰り返させてはいけないと強く思った広島訪問でした。
                                       (平井夏苗)