文字サイズ

特定非営利活動法人アーユス仏教国際協力ネットワーク

会員になるには

仏教エンタメ

仏教エンタメ2026/04/14

『百姓の足、坊さんの足』 新美南吉


639x424

『百姓の足、坊さんの足』 新美南吉著

岩波文庫『新美南吉童話集』

 この物語の主人公菊次は、百姓である。「米初穂の日」には、雲華寺の和尚さんのお供をしてふごを担って村むらをまわる。その年は豊作だったので、初穂の量は例年より多く、菊次は何回も山盛りのお米を寺の米びつまで空けに行かなければならない。最後に残った村でさらに沢山のお米をいただいて、夜の山道を登り始めたとき、片足が不自由なお年寄りが粗末な椀に新米を盛って追いかけて来る。菊次はそれを、椀ごとふごのてっぺんに乗せて歩き始めるのだが、石につまづいてこぼしてしまう。
 菊次はあわててこぼしたお米を拾いあつめる。ところがそれを、雲華寺の和尚さんは「こりゃ、土がまじっておってだめだ」と、再び地上に投げ捨て、あろうことか足でちらすのである。そして振舞い酒が頭までまわっていた菊次もまた、和尚さんのまねをしてお米をけちらしてしまう。数日後、菊次の足(それはまさにあの、お米をちらした方の足である)は、激痛を発して動かなくなる。
 菊次は当然、自分と同じように、和尚さんにもばちがあたってしかるべきだと思う。彼はそれを確かめるために、杖にすがって報恩講に出かけたりもするのである。しかし、和尚さんには何の異常もないことが分かってがっかりする。その夜、つい家族にぐちをこぼし、母親にたしなめられて、納得出来ないまま床についた菊次の眼裏に、こぼした米のまぼろしが浮かんでくる。そのときとつぜん、菊次には、自分にだけばちがあたったわけがわかるのだ。
「和尚さんは、口では米はありがたアいものだぞよ、などと説教はしても、米を作ったことがないから、米を作る苦労も、ほんとうの米のうまさも知らないのです」。だから、ばちがあたらなかったのです、と。
 私は最初にこの文章を読んだとき、背中を寒気が走りくだって、心底ぞおっとしたのを覚えている。新美南吉は「ごん狐」や「おじいさんのランプ」など、教科書にも載るくらいのヒューマンな語り口が人気の作家である。しかしその一方で、「うた時計」に見られるような、人間の「どうしようもなさ」について透徹した観察眼も持っていた。私はこのように描かれた雲華寺の和尚のために、じっさい居たたまれない思いがした。
 この夜を境に菊次はうまれかわったように美しい心になる。足にはやはり力が入らなかったが、彼はその足をひきずりながら、百姓として農作物を作り続け、天寿をまっとうする。ところが同じ日に雲華寺の和尚もまた、大酒を飲んだすえにあっけなく死ぬ。二人はどうやらあの世に続くらしい景色の美しい道で再会する。しばらくは連れ立って歩くのだが、菊次の不自由な足が立てる土埃がうるさいと眉をひそめる和尚に対して(もちろん、何の悪意もなく)菊次が言う。
 「だが、和尚さんも片足ひきずってござらっしゃるだ」
 この先は、作者が「笑われるかもしれない」と断って書いていることだから、ここには引用しない。個人的な感想として言えば、ラストシーンでの和尚のふるまいはごく立派である。彼は土壇場になってやっと、自分がなにものであったのかを悟るのだ。しかし、もちろんそれでは遅すぎる。
 新美南吉は一種の因果応報談の形を借りながら、人間が生きていくことの厳しさと、その墜落するような淋しさを描き出した。そういう意味で私にとってこの物語は、読み返すたびに新しい戦慄をもたらしてくれる、極上の恐怖小説である。
 手元にあるのは→岩波文庫「新美南吉童話集」他に「ごん狐」など十四篇を収録。『ayus vol.75』2006年12月発行より


 文学の中に感じる仏教を、アーユス会員の瀬野美佐さんが綴るエッセイ。
 瀬野美佐(せの・みさ)三重県の曹洞宗寺院に生まれる。駒沢大学仏教学部卒業後、曹洞宗宗務庁に勤務。[共著]『仏教とジェンダー』『ジェンダーイコールな仏教をめざして』(いずれも朱鷺書房)猫好きの山羊座。アーユス会員。