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仏教エンタメ2018/06/21

【仏教の文学】『提婆達多』中勘助著


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『提婆達多』中勘助著

literatureinb1 この小説と出会ったのは、曹洞宗宗務庁に就職して一、二年経った頃のこと。そのとき私は、腐りかけていた。
 住職の娘として生まれ、宗門の大学で仏教を学んだものの、いざ僧侶ばかりの職場に入ってみると、彼らの生活には宗教情操はおろか、教えに対する熱も、知性も、カケラほども見出すことが出来なかった。これではいわゆる世間一般の俗人たちの方が、偉ぶらないだけましなくらいだ。私は倦み、ばかばかしくなり、小説の世界に逃げ込んだ。そして、『提婆達多』と出会った。
 提婆達多は、原始仏教教団において仏陀に反逆した大悪人として私たち仏教徒に記憶されている人物である。そして中勘助といえば、日本語で書かれた散文詩の最高傑作のひとつ『銀の匙』の作者である。『銀の匙』が、誰もが心の中に大切にしまっている幼年期の光を綴ったものだとすれば、『提婆達多』は、誰もが心の中に持っている、しかし決して見たくない苦しい闇を描いた小説だと言えるだろう。
 物語は、デーバダッタが(原文では人名は全部漢字だが、わずらわしいので以下カタカナ)従兄弟のシッダールタに武術大会で負けたところから始まる。彼はこのことによって、ヤショーダラー姫をシッダールタに奪われたと思い込み、復讐を誓う。やがてシッダールタが出家し、悟りを得て仏陀となると、彼もまたシャカ族の王子という地位を投げうって出家し、仏陀の弟子として誰よりも禁欲的な修行生活を送る。しかしその動機は、悟りを得て衆生を済度したいというのではない。ただただ、仏陀を見返したい。仏陀よりも「偉くなりたい」という一心なのである。
 前篇のヤショーダラー姫をめぐるごたごた(小説としては成功している)から、出家して、果たされぬ復讐心と自らの醜さにもがき続ける後篇(小説としては破綻しているといわれているが、私はこっちの方が好きである)に移る頃には、読んでる方としてはもう「負けてくれ、デーバダッタ。負けてくれ」と祈るような気持ちである。負けて安楽になってくれ。もういい。勝てない。それは誰よりもあなた自身が、一番よく分かっているはずではないか! 
 そしてついに最後の数行に至ったとき、私は強い衝撃を受けた。それはまさに生きた手で心臓をわし掴みにされたような、肉体的な苦痛だった。‥‥「もしそこに我々に救いがあるならば、提婆達多こそまことに救われるであろう。提婆達多が救われずば、我々の誰が救われるであろうか」。
 中勘助が、親兄弟との間に骨肉相食む葛藤を抱えて生きた人であるということを、後になって知った。『提婆達多』に描かれた激しい心理的苦闘は、おそらくは作者自身のものだったのだろう。だとすれば、最後の数行は、彼が救いをどのように考えていたかを語るものだと言えるかもしれない。
 しかし、小説になったことで、彼の苦闘は彼一人のものから私たち読者みんなのものへと普遍化され、昇華される。それが文学というジャンルの持つ偉大な力であり、人間の心を耕す、ある意味宗教に近いはたらきを持つものなのである。
 あのとき腐りかけていた私にさえも、この小説が与えてくれた大きなはたらきを思うとき、私は今も小さな本に向かって合掌し、頭を下げざるをえない。

 手元にあるのは 岩波文庫・一九八五年刊 和辻哲郎「『提婆達多』の作者に」

『ayus vol.72』2006年4月発行より


 文学の中に感じる仏教を、アーユス会員の瀬野美佐さんが綴るエッセイ。
 瀬野美佐(せの・みさ)三重県の曹洞宗寺院に生まれる。駒沢大学仏教学部卒業後、曹洞宗宗務庁に勤務。[共著]『仏教とジェンダー』『ジェンダーイコールな仏教をめざして』(いずれも朱鷺書房)猫好きの山羊座。アーユス会員。