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仏教エンタメ2005/10/20

【女性と仏教3】尼僧


女性と仏教

尼 僧

 私が勤務する曹洞宗宗務庁に、以前、どこかのTV局の下請けらしい男性が、「尼寺の取材がしたい」と、電話をかけてきたことがある。こっちは首をかしげてしまった。修行道場として愛知専門尼僧堂はあるけれども、女性が住職することに決まっている寺(イコール尼寺なんだろうな、よく分かんないけど)なんてものは、曹洞宗には存在しないからだ。男性住職の後に女性が住職になることもあるし、その逆もある。さらに言えば、得度から修行の年数、住職になるのに必要な資格まで、女も男もまったく同じ。曹洞宗では、僧侶である限り、両性は完全に平等である。

 しかしっ、とここで私はこぶしを握って寺の中心で叫ぶ。「僧侶には性差別がないなんて、そんなの大嘘だあーっ」。

 制度のうえでは完全に平等。しかし、意識の中には厳然と差が残っている。私は最近、二十歳代の男性僧侶が「尼僧さんには払子が振れない(葬式や法事の導師が出来ないという意味)」と平然と言い放つのを聞いて、あ然とした。彼は師匠からそう教わってきたのであり、しかも現代の常識に照らして「それって、なんかおかしくない?」とは、露ほども疑っていないらしいのである。

 確かに、むかしは尼僧と男僧とでは、はっきり差別されていた。女性の僧侶はどんなに修行しても格式の高い寺の住職にはなれず、檀家を持たない小さな庵(今でも女性僧侶のことを庵主さんと呼ぶのはその名残り)に住んで、男性僧侶が住職をするでかい寺の下請けなどをして暮らすしかなかった。

 しかし、このような制度上の差別は、女性僧侶たちのねばり強い運動によって現在では撤廃されている。必要な資格さえ取れば、払子も振れるし、格式の高い寺の住職となっている女性の僧侶もいるのである。それでもなお、むかし生じた経済格差や、「尼僧の位は一段下」という誤った認識が残っていて、若い僧侶にまで、こんなとんちんかんなことを言わせてしまうのだ。

 もちろん、「男僧と肩をならべたりしようとせず、一歩退いているのが立派な尼僧ですよ」という女性の僧侶も居る。しかし、彼女はそうすることによって、何かを守ろうとしているのじゃないだろうか。なぜそんなふうに身構えなければならないのか、それを考えてみるだけのことは、してもいいと私は思う。「おちんちんがついてるからオレ、偉いんだもん」レベルの男になりたくなければ。そしてそんな男に迎合するだけの女になりたくなければ、の話だけれども。

 ちなみに男僧と違って、曹洞宗の女性僧侶のほとんどが今でも結婚をしないが、これは別にそんな決まりがあるわけではない。「出家」とは、そもそもそういうものなのだ。

 しかし、私はここで、結婚しているからどうだとか、それじゃどっちが偉いんだなんて不毛な議論をする気はさらさらない。ただ、内心では気圧されつつ、そのために遠ざけ、遠ざけつつ蔑む。そのような複合感情(コンプレックス)にきちんと向き合わないと、制度のうえでは完全に平等。しかし心の中では(山のような言い訳をでっち上げながら)きっちり差別するという、この状況は変わらないだろう。私がここに書いたのはあくまでも曹洞宗の場合だけれども、他の宗派/教団でも似たようなことがあるとすれば、それは今後の仏教にとって、次第に重い課題となってゆくだろう。

 すぐれた悟性を持つ女性の僧侶はむかしから居たし、現在も居る。彼女たちの友情を勝ち得るためには、ただこちらが、率直に謙虚であれば良いと思う私は、楽観的に過ぎるだろうか。 合掌