文字サイズ

特定非営利活動法人アーユス仏教国際協力ネットワーク

会員になるには

仏教エンタメ

仏教エンタメ2005/12/20

【女性と仏教4】信者


女性と仏教

信 者

 先日、エンゲイジドブディズム研究会に参加する機会があった。

 この日のテーマは性差別。気軽に出かけたら、現場での実例についてプレゼンテーションする羽目になり、四つの例をあげて、参加者達に討論をしてもらった。

 四つのうち三つまでは、それまで私が実際に見聞きしたことがらをもとに例題をつくったのだが、ひとつだけ、スタッフから提示されたものが使われた。実家ではお念仏をとなえて暮らしてきたのに、結婚してみたら相手が曹洞宗の檀家総代の家の息子で、菩提寺の住職から「いったん嫁いだ以上はその家の宗旨にしたがうのが正しい道」だと説教された。「これって性差別じゃないのー?」

 議論は沸騰し、浄土宗の僧侶が「そういうことをほざく坊主は、オレのところに連れて来い」と大暴走。私は大いにたのしんだのだが、さて、ではこの例のように、自分の宗旨をきちんと持っている女性がどれくらい居るのかというと、ちょっと疑問。

 だいたい日本で、女性僧侶(尼僧)でもなく、寺族(ぶっちゃけ僧侶の妻なんだけど、教義上認められないから「寺の同居人」とされている女たち)でもない女性が、どこで仏教に触れることがあるのかというと、葬式法事以外、ちょっと思い当たらないんだよね。

 これは男性も同じ事で、つまり日本の仏教というのは、葬式仏教という言葉があるくらい、そのことだけに限定されたものであるからだ。そして、そこで問題になるのは、もっぱら葬式とかお墓の問題。つまりは「家」制度の問題なのである。

 「家」制度は、戦前まではれっきとした法律として機能していた。少数の例外を除き、男性の家長をてっぺんに、家族がピラミッド形の権力関係を持つ。女性はそこでは男性とは絶対に対等ではあり得ず、したがって現代から見ると信じられないくらい、きっちり性差別を実行していた。そして、お墓あるいは檀家制度というものは、残念ながらこの「家」制度をもとにしてつくられているのだ。

 フェミニズムではお墓のことを、「家父長制度の最後の砦」とさえ呼んでいる。これは、本来仏教とは別の問題であるはずなのだが、そこでしか仏教に出会う機会のない女性たちにとっては「性差別しない仏教」の方が、想像すら出来ないことなのである。

 もしも、「性差別しない仏教」というものがあるとすれば、それはこのような檀家制度、あるいはお墓のありようからは、脱皮していなければならないだろう。しかし、現在日本にある伝統仏教教団は、そのほとんどが檀家制度に経済基盤を置いているので、それが崩れたときの自分たちの存在意義については、あきれるくらい何も考えていないのである。

 瀬戸内寂聴師の法話につどう、おびただしい女性たちの映像なんかを見ていると、仏教そのものに対する彼女たちの欲求は、決して無くなったわけではないと思う。問題は、彼女たちがそこに存在する、欲求がある、と感知するアンテナを、どれくらい教団側、私たち仏教に関わっている人間たちが持てるか、ということなのだ。

 現状ある檀家制度によりかかったままの仏教では、信者である女性たちは、視界のうちからすっぽりと抜け落ちたままである。今すぐには、どうすることも出来ないかもしれないが、彼女たちがそこに居る、主体的な欲求を持った人間として存在しているのだということに気がつけば、そこから仏教の新しい歩みも始まっていくかもしれない。「性差別しない仏教」、フェミニズム仏教というのは、意外に身近なところから、考え起こしていくことが出来るはずだと、私は思う。   合掌

瀬野美佐(せの・みさ)●三重県の曹洞宗寺院に生まれる。駒澤大学仏教学部卒業後、曹洞宗宗務庁に勤務。著書(共著)『仏教とジェンダー』『ジェンダーイコールな仏教をめざして』(いずれも朱鷺書房)猫好きの山羊座。アーユス会員。