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特定非営利活動法人アーユス仏教国際協力ネットワーク

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平和人権/アジア

平和人権/アジア2011/09/01

環境と貧困


押し付けられた「貧困」から「農」を軸にした「豊かな」地域づくりへ

 フィリピンの砂糖キビ農園の労働者は、砂糖の国際価格が暴落した時に飢餓の苦しみに直面しました。東ティモールのコーヒー生産者は、買取り価格の変動に毎年振り回されています。
自らの土地を持たず、何の決定権も持たない農園労働者たちがひとたび貧困状態に陥ると、借金だけが積み重なり、貧困のスパイラルから抜け出す術を見つけることは難しくなります。そのことは一人の元砂糖キビ農園労働者の言葉にも表れています。「労働者だったときは、いくら働いても非常に低い賃金だったのでがんばろうという気持ちがおきず、むしろどうやってさぼるかばかりを考えていたけれど、自分の土地を手にして農業をするようになったら、何ができるかということを考えるようになった」

 今年からアーユスが支援している団体APLA(あぷら)は、アジアの農民達が自立した暮らしを送れるよう、そのための過程を共に歩む活動をしています。上からの押し付けではなく、同じような立場に立つ農民どうしが経験を分かち合い、お互いに学び合う場を作る手伝いをしています。今回は、アーユスのNGO人材支援対象者の野川未央さんによる講演録の抜粋をお届けします(6月16日、アーユス総会記念セミナーより)。


フィリピンで砂糖キビ労働者との活動からアジアの農民との連帯へ

野川未央

野川未央さん

 APLAは、2008年5月に非営利活動法人として発足した、まだ新しい団体ですが、発足前の22年間、日本ネグロス・キャンペーン委員会(JCNC)という任意団体として活動していた経験を引き継いでいます。まずはその歴史についてお話したいと思います。

ネグロス島はフィリピンにある島の一つです。現代のフィリピンが抱える問題には、長い間フィリピンが植民地支配を受けていたという社会的な構造が大きく関係しています。「ネグロス」というのは「黒い人びと」という意味からスペイン人が名付けたものです。

フィリピンは1565年から300年以上スペインの植民地支配下におかれ、第二次世界大戦時には日本が侵攻して約3年間占領しています。そして日本の敗戦後、1946年にフィリピン共和国として独立を果たしました。ただし、その後の道のりも平坦ではなく、70年代から80年代にかけてマルコスの独裁政権が続きました。

フィリピンの砂糖生産の約6割を生産することから、ネグロス島は「砂糖壷」「砂糖の島」と呼ばれています。島に広がる砂糖キビのプランテーションは、植民者であるスペイン人が持ち込んだもので、そのときに大土地所有制という土地の所有制度も持ち込まれました。それによって、大多数の一般市民は土地無しの農園労働者となりました。1980年代のネグロス西州(ネグロス島西部)では、約200万人弱の人口のうちのわずか5万7千人の大地主が、島の全耕作面積の約7割を所有していました。

そして、1985年に砂糖の国際価格が大暴落しました。それまで1ポンド(約450グラム)あたり約18セントだった価格が、約6セントに下がりました。1ポンドの砂糖を作るのに約12セントの費用がかかるため、赤字でビジネスを続ける必要がない製糖工場はすぐに操業を止め、プランテーションの砂糖キビは放棄されました。様々な事業を手がける大地主にとっては死活問題とまではならないものの、農園労働者は違います。工場が止まって仕事を失うのは契約、日雇いの労働者です。当時、仕事を失った労働者の子どもたち約15万人が餓死の危機に瀕したと言われています。そういった子どもたちを助けなくてはという思いから、日本の市民が連帯して緊急支援を始めたのが、日本ネグロス・キャンペーン委員会(JCNC)の始まりです。

当時は、餓死寸前の人たち(特に子ども)に食べものを届けたいという思いで活動していましたが、半年ほど経った頃に「ネグロス島の子どもたちが飢えたのは一体どういうことだったのだろうか」と、それまでを振り返ってみたのです。自然災害でもなく、戦争でもなく、大土地所有制や砂糖だけに依存した経済という構造的な暴力が原因であり、問題の根本に切り込んでいかない限りまた同じようなことが起きてしまうという気づきがありました。それと同時に、現地側からも「必要としているのは、魚ではなくて魚を捕る網なんだ」という声があがりました。食べ物をもらい続けるのではなくて仕事が欲しいという要望が提起されたのです。

そうした経緯で、ネグロスの農園労働者が自立した農民になる過程を一緒に歩もうということになりました。さらに、人びとが自立していくための経済基盤を作るために、1989年にはオルター・トレードジャパン(ATJ)という会社が市民や生協団体の出資で設立され、黒砂糖やバナナの輸出入に取り組み始めました。現在では「フェアトレード」の認知度も高まりつつありますが、ATJは、(大企業に左右されるのではなく)自分たちの手によって顔の見える形でモノを届けるという意味で「民衆交易」と名づけ、今日までにアジア各地の生産者とつながってきています。

一方JCNCは、経済の基盤作りはATJに任せて、人びとがきちんと自立して食べていけるための地域作りを目指しました。放置されていたプランテーションを水田や畑にして自分たちが食べるお米や野菜を作ることを進めていったのです。

しかし、いろいろな問題にぶつかりました。一つは人びとに労働技術がないことです。長い間農園労働者としてひたすら砂糖キビを刈っていただけなので、農業のノウハウを持っておらず、農機具も十分にありません。これらの問題には、研修所を開き研修を実施、または水牛や農機具を支援することなどで対応しましたが、もっとも大きな問題は農民が自らの農地を持っていないことでした。

フィリピンでも農地改革が法律のもとに進められることになりましたが、既得権益を握っている大土地所有者が抵抗し、時には民兵を組織してまで農民に対してひどい嫌がらせをしたので、JCNCも土地を得るために活動をしている人たちへの支援を実施しました。実際に、私たちが支援していた元砂糖キビ労働者の青年が、やっとの思いで地主から土地を手に入れた直後に民兵に射殺されるという悲しい事件がおきています。

もともと農園労働者だった人が農民になっていく過程では、農家同士のネットワークが始まったのがとても大きな意味をもちました。ばらばらだった労働者たちが、助け合いのネットワークを築き、人間としての尊厳や自分たちが意志決定できる自由をどんどん得ていきました。

女性たちも変わりました。「労働者だったときはいくら働いても非常に低い賃金だったのでがんばろうという気持ちがおきず、むしろいかにさぼるかを考えていたけれど、自分たちが農民になり土地を手にして農業をするようになったら、何ができるかということを考えるようになった」。もちろん天候などの困難にぶちあたるのですが、基本的に自分ががんばれば努力したぶんが返ってくることがわかったというのです。そして夫婦げんかが少なくなったのよと、よく話してくれました。女性が家族の意志決定の中に入っていけるのも、大きな変化の一つと言えるでしょう。

JCNCは22年間にわたりネグロス島で活動し、その間に数え切れないほどの失敗と成功を繰り返しましたが、APLAはそれらの経験を受け継いでいます。JCNCにとっては初期のころから「支援する・される」関係を乗り越えるというのがキーワードでしたが、APLAは、ATJがいろいろな商品を扱う中で出会ってきた地域、例えば東ティモール、インドネシア、同じフィリピンでもルソン島の北部などの仲間たちの横のつながりを作り、そこに日本の私たちも一員として参加するというスタンスで活動をしています。

東ティモールが独立するまで

 ここから東ティモールのことをお話します。東ティモールは、古くから良質の白檀で有名で、遠くアラブや中国から良質の白檀を求めて商人がこぞってやってきたといわれています。そして同じように白檀を求めて来航したポルトガルが、1951年以降、ティモールを植民地支配しました。しかし18世紀にはオランダが勢力を拡大し、ティモール島の西側半分を植民地とします。

1942年には日本軍がティモール島に侵攻しています。大戦後、オランダ領だった西ティモールは、1945年にインドネシアが独立した時にインドネシアの一つの州となりましたが、東ティモールにはポルトガルが戻ってきたので、すぐに独立できませんでした。

75年のポルトガル本国の政変によって、東ティモールは独立宣言を行います。しかし隣の大国のインドネシアが、米国やオーストラリアなどの後ろ盾を得て軍事侵攻をしました。そして76年、国連総会が軍事侵攻を非難する決議を出しましたが、インドネシアはそれを完全に無視して東ティモールを自分たちの27番目の州として強制併合します。そこから24年間、東ティモールの人たちは独立を目指して闘いました。そして96年に活動家のラモス・ホルタ(現大統領)とベロ司教の2人の東ティモール人がノーベル平和賞を受賞して世界的注目を集めたこと、99年に当時のインドネシアで独裁体制だったスハルト政権が倒れたことをきっかけに住民投票が実施され、78の支持を得て独立が決まりました。しかし投票の直後に、インドネシアの後ろ盾のもと民兵による大虐殺がおき、30万人とも言われる避難民が発生しました。多国籍軍の到着に2週間も要したため、その間にたくさんの人が命を落とし、家や財産などを失う結果となりました。その後2年間の暫定政府による統治を経て、2002年5月に東ティモール民主共和国として独立を果たしています。

コーヒー生産者が抱える課題

 APLAの活動地は、東ティモールの中でもコーヒー産地として知られているエルメラ県の高地です。コーヒーは熱帯にできる作物ですが、気温差が大きいことが重要で標高の高いところでないと美味しいコーヒーが採れません。エルメラ県には、コーヒーの木とシェードツリーと呼ばれる大きな木が広がっています。コーヒーの木が直射日光に弱いので、シェードツリーの下に植えられるためです。これはポルトガル時代に持ち込まれたものです。

ほとんどの人たちが自分たちの農園で採れたコーヒーで生計を立てています。農園が小さい場合は、大きな農園に出稼ぎに行って賃金を得ることもあります。

コーヒーは、外国の大企業による買い取りがほとんどですが、問題はこれらの企業は地域に固執せずに、ほかに良い地域があればすぐに移動してしまうことです。また、コーヒーの価格が米国・ニューヨークにある先物取引所で決定されるために、市場の変動が農民の暮らしに大きく影響を及ぼすことも問題です。実際に、2011年はコーヒーの価格が上がっており、5月31日の東京新聞によると、4月平均で前年度同月比の2.1倍となっています。その理由には中国やインドの需要の急増、そして産地の天候不順などがあげられるようです。農民にとって買い取り価格が高くなるのはいいことだと思われるかもしれませんが、一方でいつ価格が大暴落するかもわかりません。過去にも、90年には50セントに、2001年にはベトナムがコーヒー市場に参入したためにコーヒーの供給量が増えて42セントに大暴落しました。ですからコーヒー農民は、今年はいいかもしれないが来年はわからないという不安定な状況に常に直面しているわけです。

これらの問題以外にも、コーヒー生産者は課題を抱えています。例えば、コーヒーの収穫シーズンが終了後、だいたい1ヶ月もすると現金がなくなる農家が多くあります。そうした農家は、翌年の収穫まで町に出稼ぎに出るか、あるいは借金をしなければ家族そろって飢え死にしてしまうというのです。

また、マイクロクレジットという小規模金融のシステムが、東ティモールにも独立後に入っていますが、多くの農民が「もうマイクロクレジットからお金を借りるのはこりごりだ」と言っています。毎週決められた金額とそれに加えて利息を返さないといけないのですが、仕事がないので返済できず、結局は単に借金漬けになることが多いからです。貸付団体からのサポートがほとんどなく、土地や家を売らなければならなくなった人の話もよく聞きます。

深刻な異常気象の影響も出てきています。昨年の6月から8月に現地に滞在した際、本来乾期であるはずなのに毎日雨が降っていました。コーヒーの木が花を咲かせる時期に続いた大雨のためにコーヒーの花が落ちてしまい、その結果、今年のコーヒーの実の付き方が非常に悪くなっています。もともと今年は裏年であるのに加えての昨年の雨の影響で、ほとんど収穫が見込まれていません。
そういったことも含めて、APLAは何をすべきかを考えてきました。フィリピンと東ティモールの共通点は、欧米諸国による長い間の植民地支配とプランテーション経済に頼らざるを得ない状況が続いたことです。その結果、本来あった豊かな自然環境が破壊されて、人びとが貧困のスパイラルに陥っていきました。

そういった問題を乗り越えるために、APLAはいくつかの取り組みを始めています。1つは、現金収入をコーヒー生産だけに依存しない仕組み作りです。たとえば、有機栽培で野菜やお米を作り始めています。また、コーヒー農園の中に自分たちが食べられるものも植えようとしています。コーヒー農園は、シェードツリーの葉っぱが落ちてくる上に湿気があるので非常に土が豊かなのです。
コミュニティの中にため池を作っているのですが、そこで自分たちのタンパク源になる、もしくは近隣の市場で売れるような淡水魚を養殖することも考えています。また、自分たちが食べる以上の余剰作物を女性たちが加工して近隣の市場で販売できるようにする計画もあります。農民の人たちと何ヶ月もかけて話し合って、計画を立てているところです。

農民交流プログラム フィリピン・東ティモール

 ここでみなさんにご紹介したいのが、APLAが昨年から集中的に実施している農民の交流プログラムです。

まずは昨年の11月に、東ティモールの農民がフィリピンを訪問しました。ネグロス島だけでなくルソン島の北部も訪問しました。北部ルソンは東ティモールと似たような山地で、そこで先住民の人たちが営んでいる農業から学ぶことが多いと考えたためです。とある篤農家からは、技術面のほかに、「結局は自分たちがやるしかない、ほかの地域の人たちが真似したくなるようなモデルに自分たちがなりなさい」という熱いメッセージをもらいました。

そして、2千年以上にわたって受け継がれている棚田を見学しました。女性たちが農閑期に手入れをして準備をしている姿をみて、農業を守るのにどれだけ根気のいる仕事が必要かという点に気がつきました。それに比べて自分たちはコーヒーの手入れもしていないし、土地があるのに米もつくっていないと、自分たちの農業をふりかえるようになりました。

それでもまだ、東ティモールの農民は、「自分たちの土地は乾期になったらカラカラに乾き、雨期になったら全部流されてしまう」と言うわけです。「土だってフィリピンみたいに肥沃じゃなくて堅い赤土だからうまくいかない」と。それに対して北部ルソンの先住民の方が諭してくれました。「無いものねだりをするのではなく、自分たちのところにあるものを探すんだ。手をかければ必ず成果につながるから」と。

そして、間髪をいれずに今年の2月にフィリピンの農民が東ティモールを訪問するというプログラムを組みました。というのも、東ティモールからフィリピンに行ったメンバーは、様々なアイデアを得て帰ったのですが、具体的なノウハウや細かい点まで自分たちの仲間に伝えることは難しかったからです。そこで、長い現場での経験を持っているフィリピンの農民に東ティモールまできてもらい、具体的にアドバイスをしてもらう機会をつくりました。

フィリピンの人たちがコーヒー農民に伝えたことで印象的だったのは、「成功する鍵は3つしかない。人、ここの土地、そしてディスカルテ(知恵)。この3つが揃えば絶対にうまくいく。ないものねだりをするのではなく、自分たちにあるものをどう生かしていくのかを考えて欲しい」というものです。2度の交流プログラムを経て、コーヒー農民たちの間では、コーヒーから得られるお金を待つだけではなくて、自分たちで十分に食べていける仕事を見つけたいと、意識が変化しているようです。

1つのグループはコミュニティのデモファームをつくりました。最初から一人でやるのは大変だということで、メンバーみんなで開墾を始めました。3ヶ月後にはいろいろな野菜が育ち、乾季にそなえた立派なため池もできました。

元来、東ティモールの主食は芋系でしたが、24年間にわたるインドネシアによる強制併合の間に米食がすっかり定着しています。しかし、地形上水田を作るのは難しく、お米は常に外から購入しないといけません。その支出が家計に大きく響きます。そこでフィリピンで陸稲を作っている農民のグループから籾をもらってきて実験的に蒔いたところ、しっかり芽を出して育っているという報告が届いています。自分たちで作るお米を食べることを夢見て、東ティモールの農民達は一生懸命がんばっています。

apla

家計簿をつけ始めた女性たち。

 一方、女性たちも着実に動き出しています。たとえば家計簿をつけること。気がついたらお金がなくなっているような状況から脱したいという思いからです。読み書きができない女性には、コミュニティの中で識字教育も同時に行っています。女性達はまだまだ間違いはあるものの、記録を続けるにつれて自信もついてきて「できるようになったら周りの人にも教えてあげたいわ」と言えるくらいの余裕も出てくるようになりました。別のグループではとにかく自分たちの地域にあるものを売ってお金にしたいということで、タロイモやキャッサバでお菓子を、そしてオレンジでワインを作っています。このワインの作り方もフィリピンで学んできたものです。

最後になりましたが、私たちはいろんなプログラムを通して、コーヒーの産地ある種のモデルになるような地域を作りたいと考えています。まずは2つのコーヒー生産者グループと一緒に良質なコーヒーを作り安定した収入を見出していく。そして多様な自給作物を栽培して支出を減らし、さらには地域内の小規模なビジネスにつなげることができないか、とも考えています。先に述べたような女性の経済活動もサポートしていきます。この4つの柱でコーヒー産地での自立した生活を実現したいとの思いで、農民の人たちと一緒に活動しています。

「豊かさ」という言葉が何を意味するのかは色々な解釈があり難しいところです。しかしAPLAは、活動地の人々が一つの現金収入に頼るしかなく「来年はどうなるんだろう」という不安を抱え続けるような状況から脱して、地域にあるものを活かしつつ、そこに生きる全ての人が主体的に関われるような地域作りを一緒にできたらいいなと思っています。