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仏教エンタメ

仏教エンタメ2005/06/20

【女性と仏教1】女たちの如是我聞


女性と仏教

女たちの如是我聞

 世の中に、倶ニ天ヲ戴カズとばかりに相容れないものは数々あるが、仏教とフェミニズムも、そのひとつではないだろうか。

 『性差別する仏教』以来、仏教がその始まりから、教団内の地位においても、また経典中の記述においても、女性を男性より一段低いものと定義づけ、女性は成仏出来ない、女性は(男性の)修行者を惑わす悪しき存在であると説いてきたことは、一部のフェミニストにとってはもはや常識である。「仏教は性差別をしている」したがって「仏教徒であるならば、フェミニストではありえない」のである。

 ところがこの私は、仏教徒でありながら、フェミニストでもあるのだ。父親が僧侶で、寺院で生まれそだち、大学で仏教(それもコチコチの曹洞禅)を学んだという点をわり引くにしても、私は仏教が好きである。久遠の縁起の教えが好きだし、「仏道をならふといふは、自己をならふ也」という章句を想うときは、背筋が伸びる。原稿だって、「うまく書かせてください」と祈りつつ、合掌しながら書いているんである(そんな器用な真似は出来ませんって)。

 平らに考えて——これは私がよく使う表現——お寺に来る信者の多くは女性なのだから、たとえ彼女たちが差別的な教えを狡猾に信じ込まされているにしても——そこまで馬鹿じゃないと思う——仏教には、女性にとっても良いところがあるはずなのだ。道元には優秀な女性のお弟子だって居た。彼の『正法眼蔵』に、「女身成仏の説あれどまたこれ正伝にあらず」という一句があって、道元も女性を差別していたという証拠に使われることが多いのだけど、この一句は「出家功徳」という巻にあるもので、ようするに女性だからって特別枠があるわけじゃない、とにかく自己を極めるからには、みなみな出家しなさいよという意味だというふうに、私なんかは読むわけである(そのこと自体が差別体質を植え込まれている証拠なんだと言われてしまったらおしまいだけどね)。

 こういう分の悪いフィールドに私の属する「女性と仏教・関東ネットワーク」は、ある。これは「女性と仏教・東海ネットワーク」の後に、関東地方を中心につくられた超宗派の女性たちによるネットワークだ。ここに参加するようになって、私は曹洞宗だけではなく、どの宗派でも、女性(僧侶であるか信者であるかを問わず)がイニシアチブを取って、自分たちの身近な問題について直接論じ合う場がいかに少ない(っていうかほとんど無い)かってことを実感した。

 賢い人たちが言う仏教は確かに性差別しているかもしれない。だけど、信仰というのはもっと極私的なもので、いま、ここで、生きている自分をどうとらえるか、ということなのだ。それは仏教という宗教の原点でもある。

 そして私たちのネットワークでは、そのことを一番大切にする。誰がそう言ったかではなく、自分がどう感じたかを重く取る。これは実は、フェミニズムの考え方に、とても近いんじゃないかと思う。

 私でいい。女でいい。仏教徒でもいいじゃないか。仲間たちと出会うことで、私はおおいに自信をつけた。そこで、自分がこれまでそだててもらった曹洞宗の中の女性たちの問題について、再び考え始めたのである。

 私たち教団の中の女性の立場には三つある。ひとつは僧侶(尼僧)。次が信者、残るひとつが寺族である。後の二つは教学的に言えば同じである。しかし、そこにはものすごい差がある。その差は何か。そして、なぜその差は生じてきたのか。

 次回は、このことについてお話させていただこう。合掌(本当に合掌しているのよ、わるいけど)。

瀬野美佐

せの・みさ●三重県の曹洞宗寺院に生まれる。駒澤大学仏教学部卒業後、曹洞宗宗務庁に勤務。著書(共著)『仏教とジェンダー』『ジェンダーイコールな仏教をめざして』(いずれも朱鷺書房)猫好きの山羊座。アーユス会員。