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エンゲイジドブッディズム

エンゲイジドブッディズム2022/01/31

【1月】理由は問わない症候群


 菅直人元首相がTwitterで「(維新は)主張は別として弁舌の巧みさでは第一次大戦後の混乱するドイツで政権を取った当時のヒットラーを思い起こす」と発信したのに対して、維新の会が「誹謗中傷を超えた侮辱」「相手をヒットラーに喩えることは国際的には許容されない」と抗議をし、マスコミでも同様の論調が流されました。
 しかしすぐ、世界でタブー視されるのはヒットラーの礼賛や肯定であり、批判的な文脈での比喩は排除されないと、海外事情に詳しいジャーナリストたちが反駁。また、橋下徹氏自身が過去に、ヒットラーを比喩に当時の民主党を批判したこと、石原慎太郎氏が橋下氏をヒットラーと重ねて肯定的に評価した時にはそれを甘受した事実が掘り起こされると、たちまち抗議はトーンダウン。結果として「菅氏が軽率な発信をした」印象だけは残った格好です。
 この一連の中で考えておきたいことは、「文脈を問わずナチスの比喩はご法度」という馬鹿げた論調が一時であってもマスコミにさえ受け入れられたのはなぜかということです。
 その原因には日本社会における「理由は問わない症候群」があるのでは。
 これまでも、政治家がナチスを比喩に採用し、抗議を受けて撤回するケースが数度ありました。その際に、「なぜこの発言が悪かったのか」の振り返りがなされずに、「抗議されたのでとりあえず撤回して終わり」とされてきたように思えるのです。その結果、「理由は問わずこのワードはNG」という自動応答的感性が生まれたのではないでしょうか。
 同様のケースが放送界に見られます。20年ほど前まで、放送をしてはいけない「放送禁止歌」がありました。主に、障害者や被差別部落を扱ったものです。人権擁護のためとされていましたが、実際には、あるかもしれないクレームを回避したいという防衛措置でした。「問題とされそうなワードを使っている歌は理由は問わずダメ」。それにより、差別解消をテーマとし、被差別当事者もぜひ広めてほしいと願った歌さえ「差別関連」に分類され放送されないという歪んだ結果となったのです。
 それを明らかにしたドキュメンタリー番組「放送禁止歌」がこのたび、DVDとなりました。「こうなっていることの理由を問わない」ことが、場合によっては自分たちの望んでいる方向とは真逆への導きになりかねない実例が示されています。「問わない」ことは「態度保留」でも「中立」でも「責任回避」でもはなく、同調及び肯定に与することに他なりません。(アーユス)