平和人権/アジア
平和人権/アジア2019/12/16ツイート
現在と過去の対話を実感する
日本の工業を支えてきた川崎臨海部。かつて浅野セメントに通う労働者が通った通称「セメント通り」(川崎市)
日韓関係がどうにもかみ合わない。そんなもどかしさ、いらだち、あきらめの雰囲気が、このところ増幅しているように感じます。慰安婦、徴用工・・・解決済みの問題では? 反省と謝罪・・・これ以上、何をどう謝ればいい? ヘイトスピーチ・・・どうして日本には特別永住権を持つ人たちが暮らしているの? 戦争を知る世代がどんどん鬼籍に入っていくいま、過去に学ぶ機会も少なくなってしまっています。
アーユスの参加する「KOREAこどもキャンペーン」では、朝鮮半島に足を運ぶだけでなく、私たちの足元をしっかり捉えなおそうと、大学生たちとの学習会を積み重ねています。その一環として、今年は関東の朝鮮にかかわる歴史の現場を歩こうと、横浜から横須賀、そして川崎での1泊2日のフィールドワークを実施、日本人の大学生14名が参加しました。
一日目は、1923年の関東大震災に目を向ける場所からスタート。まず、横浜市港北区にある蓮勝寺を訪れました。ここには、震災時に虐殺で亡くなった朝鮮人の追悼碑が複数あります。朝鮮人虐殺を公然と語ることのできなかった、1933年に建立されたものが最も古いものです。神奈川県内にはこうした追悼碑のあるお寺のほか、また震災時に自警団から朝鮮人を守った鶴見警察署長・大川常吉の顕彰碑がおかれたお寺もあります。参加者のなかからは、「こんな身近に当時の記憶を残したところがあるとは知らなかった」「普段、見逃しているものがたくさんあるかもしれない」との声があがりました。
次は、海を目の前にのぞむ野島公園へ。川崎から横浜にかけての臨海部には軍需工場が林立していたため、第二次世界大戦末期になると多くの防空壕が作られ、それが今も残っています。野島公園の丘の中には、飛行機を丸ごと隠すための掩体壕(えんたいごう)が作られました。周囲を一巡するとその大きさがわかります。こうした工事にも朝鮮人が多数従事していたとの説明を受けて、「徴用工」の時代がぐっと身近になってきました。
さらに三浦半島を南に下ります。横須賀は海軍基地のあった重要地点ですが、京浜急行の走る線路も片側に海、片側に急峻な山という土地でたくさんのトンネルがあり、天然の要塞ということが肌で感じられます。海の近く、丘の上など、軍都・横須賀を様々な角度から見るとともに、現在もその役割が引き継がれて海上自衛隊と米軍が連携している様子を目の当たりにしました。戦争の時代から途切れることのない現在地がそこにはありました。学生からも、「戦争の歴史は「歴史」として頭の片隅にあり、「社会問題」としての米軍基地とは切り離されて存在しているが、現在社会問題として存在する問題の多くは歴史を辿ってきた中で生まれてきた問題」との気づきの声があがりました。
二日目は、川崎の臨海部へ。在日コリアンの集住地域として知られ、最近はヘイトスピーチの標的となりながら、川崎市のヘイトスピーチ禁止条例成立に大きな役割を果たした現場でもあります。
「産業道路」「セメント通り」…近代史のなかで工場地帯として発展していったことがわかる名称が多く残っています。日本鋼管、浅野セメントなどの大企業が20世紀初頭に次々と工場を建設し、多くの労働力を必要としましたが、大戦中には戦時労働動員の朝鮮人労働者が多く暮らすようになりました。戦後は、差別のために安定した仕事に就けない朝鮮人が、支え合いながら暮らしてきた場所。住まいが先、その間を縫う道路は後。池上町では、その時代背景を彷彿とさせる小路をぬって歩きました。
最後は、川崎市ふれあい館へ。川崎の在日コリアンの歴史を伺ったのですが、戦後の権利獲得の歴史では、いわゆるコリアンの民族団体が力を発揮したというよりも、日本人がともに運動に参加し、地域全体のことを考え、コリアンも日本人も利用できる市の施設を共につくっていった「共生」のモデルがそこにありました。
その場には、在日一世、二世のおばあさん(ハルモニ)たちもいらしてお話を聞かせてくださいました。今の韓国で生まれて解放(終戦)を北で迎えたのち南に戻りその後日本に来られた方、長崎で生まれたのち各地を転々とされ80歳近くなるまで現役で働いてこられた方、ひとことに「一世」「二世」と言っても辿ってこられた道のりは多様であり、しかしその苦労は言葉に尽くせないものであることは共通していました。
「差別は当事者が声を挙げないと誰も気づかない」というお話は、多くの学生の心に響いたようですが、当事者に声を挙げさせにくくしている日本社会とは何なのか、差別に気づかずにいる私たちとは何なのか。現在の社会問題や事象だけで判断し、過去の経緯から考えてみることができないのは何故なのか。多くの問いを投げかけられるフィールドワークとなりました。
歴史の問題を解決するための政治的な「合意」。それを日本はひとつのゴールと考えたいのですが、韓国にとっては過去、国力の大きな差から生まれてきた不平等からやっと脱して同じ土俵に立てたスタート地点なのではないでしょうか。「合意」ができたらその日ですべてが解決するわけではない、そこで歴史が一区切りつくわけでもない。なぜなら、そこには脈々と続く人としての生活が息づいているからです。(〒)