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仏教エンタメ2020/04/16

【仏教の文学】夜叉ヶ池 泉鏡花著


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『夜叉ヶ池』泉鏡花著

literature_buddhism2 泉鏡花の戯曲「夜叉ヶ池」にお坊さんが出てくるよ、と言うと、えっ、という顔をされる。実際に芝居を見ている人でさえ、「どの場面で?」と聞き返してくる。それは、山沢学円というこの人物が、ト書きに指定されているように「パナマ帽子に背広、草鞋ばき」の、あまり僧侶らしくない格好をしているからもあろうが、それ以上に彼の行動が、ほとんどの人が考えている「僧侶らしさ」から逸れているせいもあるだろう。実際には彼がこの戯曲で果たしている役割はひじょうに重要で、狂言回しの彼が登場しなくては、そもそも物語自体が始まらないのである。

 本願寺派の僧侶であり、京都大学の教授でもある山沢学円は、越前を旅している途中、数年前に失踪した親友の萩原晃が、山深い里で地元の娘/百合と夫婦になり、自身は鐘楼守となって日を送るのに出会って驚愕する。晃が言うには、自分たちが龍神との約束を守って毎日鐘を撞かなければ、夜叉ヶ池から大波が来て、麓の六ヶ村数千人の生命が水に呑まれてしまうというのだ。

 学円は当初それを信じない。「君は信じるのか」と晃に詰めよりもする。このあたり、この時代の真宗僧侶は一般にくらべてむしろ「理性派」であると思われていたらしくて、興味深い。しかし学円は結局、百合の人離れした美しさ、加えて晃の決心の清々しさに打たれ、「何にも言はん。然う信ぜい。堅く信ぜい」と、励ますことさえしてしまう。

 物語はその後、百合を雨乞いの儀式のいけにえにしようとする村の有力者たちと、百合を守ろうとする晃、学円の乱闘騒ぎに発展する。追い詰められたあげく、百合は自ら死を選ぶ。時刻はちょうど、鐘を撞かねばならぬ丑満の刻限。クライマックスである。

  晃  (昂然として鐘を凝視し) 山沢、僕は此の鐘を撞くまいと思ふ。何うだ。
  学円 (沈思の後)、打つな、お百合さんのために、打つな。

 手にした鎌で撞木を切り落とした晃は、返す刃で自らの生命をも絶つ。すると、言い伝えのとおり夜叉ヶ池から津波が押しよせ、鐘楼も村も水沈する。最後は、静かな水面に向かって学円が合掌している姿で、幕となる。

 それにしても。「鐘を撞くな」とは、この場面で僧侶として、この発言は如何なものであろう。夜叉ヶ池の伝説を信じていないのならばいい。しかし学円はすでに伝説を信じている。撞かなければ村が沈む、ということを、分かっている、はずなのだ。

 しかしまた、ここでもし学円が「いやあ、それはまずいよ。仏教の教えではね」なんぞと言い出したら、芝居が成立しないだろう。それ以前に、山沢学円という人間が成立しない。私たちが受け取る学円という人間のリアリティは、まさにこの、僧侶らしからぬ一言に凝縮されているのだ。

 考えてみれば、僧侶である前にまず誰かの友、あるいは美に感じ、情に涙する人間として成立していなければ、その人が仏教を信じ、また語ることに、何の意味もないはずなのだ。現在の宗教界の現状に立ち、苦い水を飲むようにして、私はそう考える。

 蛇足ながら、有名な『高野聖』の主人公も僧侶であるが、こっちが自分のことを「出家」だと言うのに対して、『夜叉ヶ池』の学円は「坊主ぢゃ」と名乗っている。二人が物語の中で果たす役割や言動には、やはり多少の宗派性が感じられて、鏡花の筆力に感嘆すると同時に、読者としてはくらべて読んでみても、面白いかもしれない。

 手元にあるのは→講談社文庫昭和五十四年刊。他に「海神別荘」「天守物語」を収録。

『ayus vol.73』2006年8月発行より


 文学の中に感じる仏教を、アーユス会員の瀬野美佐さんが綴るエッセイ。
 瀬野美佐(せの・みさ)三重県の曹洞宗寺院に生まれる。駒沢大学仏教学部卒業後、曹洞宗宗務庁に勤務。[共著]『仏教とジェンダー』『ジェンダーイコールな仏教をめざして』(いずれも朱鷺書房)猫好きの山羊座。アーユス会員。