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国際協力の寺2026/07/14

仏共講座#2_3 宗教家は、元来、戦争に反対すべきものである


2026年2月5日、「仏共講座|お寺とNPOがともに考える多文化共生 #2」を名古屋・東別院にて開催しました(協力:TERA Energy株式会社)。
宗教者とNPOがそれぞれの現場から実践を持ち寄り、「支援」や「共生」をあらためて問い直す場となりました。登壇したのは、曹洞宗・徳林寺前住職の高岡秀暢さん、名古屋難民支援室コーディネーターの羽田野真帆さん、真宗大谷派・圓光寺住職の大東仁さん。それぞれが愛知県を拠点に多文化と向き合ってきた実践を、率直な言葉で語りました。
本レポートでは、大東仁さんの発表をご紹介します。前の2人が「ともにある」温かな実践を語ったのに対し、大東さんが持ち込んだのは、仏教が戦争と差別にどう加担してきたかという、正面からの問いでした。過去の事実を直視することなしに「多文化共生」は語れない――その静かな迫力が、会場に響きました。
報告:霍野廣由(僧侶、アーユス、TERA Energy


「宗教家は、元来、戦争に反対すべきものである」――仏教が犯した過ちを問い直し、「平等と平和」を取り戻す

圓光寺 住職・大東仁さんの取り組みから【仏共講座レポート03】

「不殺生」の邪魔をした言葉――「一殺多生」という論理の起源

大東さんの話は、仏教の根本戒律である「不殺生」から始まりました。殺してはならない——お釈迦様のこの教えは、戦争に協力しようとする僧侶たちにとって、都合の悪いものでした。

その「邪魔」を取り除くために引っ張り出されてきた論理が、「一殺多生(いっさつたしょう)」です。「少数を殺すことで多数が生きられるなら、それは慈悲である」という考え方で、日露戦争期には「戦争に協力することこそが仏教の慈悲だ」と説くために用いられました。

「お釈迦様、あなたは間違っています。仏教は一殺多生です、と説教した——ということですね」――大東仁さん

大東さんが調べただけで、少なくとも6つの宗派がこの「一殺多生」を使っていたことが確認できるといいます。真宗大谷派だけの問題ではなく、日本仏教全体が戦争に加担した論理として機能していたということです。

さらに大東さんが強調したのは、この言葉が使われ始めた時期です。

「一殺多生が使われ始めたのは1883年(明治16年)のことです。日本が近代になって初めて外国と戦争した日清戦争は、その11年後の1894年(明治27年)。戦争の11年前に、お坊さんたちが今後の戦争のために今のうちに作っておいた言葉だということです」――大東仁さん

「戦争中だから仕方なかった」「やらされた」という言い訳は、この事実の前には成り立ちません。一殺多生は、戦時の産物ではなく、平時に準備された論理だったのです。

大東さんはこの言葉の構造をさらに解き明かします。「一殺多生」には、殺生の肯定だけでなく、もう一つの問題が含まれています——それは「命の差別」です。「一(少数)を切り捨てて多数のために」という論理は、命に優劣をつけることを意味します。戦争の肯定と差別の肯定が、一つの言葉に組み込まれていたのです。

宗派を「裏切った」3人の僧侶――高木顕明、竹中彰元、植木徹誠

しかし、真宗大谷派にはこの流れに抗った僧侶が3人いました。大東さんは彼らを「宗派を裏切った不埒なお坊さん」と、あえて逆説的な言葉で紹介します。

1人目は高木顕明(たかぎけんみょう)です。愛知県清須市出身の高木顕明は、被差別部落に対する根強い差別意識を持って和歌山県新宮市にあるお寺の住職となりました。しかし、そのお寺には被差別部落の門徒が多くいました。借金をして寺を買った以上、「あっち行け」とは言えない。嫌々ながら関わり始めた中で、彼の意識は少しずつ変わっていきます。「彼らの貧しさはとんでもないことだ。差別されることはとんでもないことだ」と。

日露戦争が始まると、彼は明確に反戦の立場を表明しました。その言葉を大東さんは記録から正確に引用します。

「極楽世界には他方の国土を侵害したということも聞かねば、義のために大戦争を起こしたということも一切聞かれたことはない。よって余は非開戦論者である。戦争は極楽の分人のなすことでないと思うている。」――高木顕明(大東仁さんの引用より)

阿弥陀如来や釈迦如来が戦争をしたとは聞いたことがない。だから自分もしない。仏教の根本に立ち返った、単純明快な反戦の論理でした。

2人目は竹中彰元(たけなかしょうげん)です。大東さんの著書『戦争は罪悪である――反戦僧侶・竹中彰元の叛骨』のタイトルにもなっている人物で、岐阜県垂井町にあるお寺の住職でした。

1937年7月7日、日中全面戦争が始まった直後、竹中彰元は同年9月15日と10月10日の2度にわたって反戦の法話を行います。2度の法話に共通していた言葉が「戦争は罪悪である」でした。

なぜ罪悪なのか。2度目の法話でその理由が語られています。

「戦争とは、いたずらに彼我の生命を奪うものである」――竹中彰元(大東仁さんの引用より)

「彼我」とは相手と自分、つまり中国人と日本人の両方を指します。日本人が死ぬから罪悪であるだけでなく、中国人が死ぬからも罪悪である——当時、敵国として差別されていた中国人の命を日本人と「平等」に見る視点が、この言葉には込められていました。

3人目は植木徹誠(うえきてつじょう)です。俳優・植木等の実父として知られる人物です。工場労働者として労働運動に関わっていたところを事実上解雇され、妻の実家である真宗大谷派のお寺に居候したことから僧侶の道へ。三重県伊勢市のお寺に入り、被差別部落の人々による差別撤廃運動(水平社運動)にも深く関わりました。

日中戦争が始まると、彼の発言にも反戦の言葉が増えていきます。

「宗教家が戦争を弁護するのは矛盾している。元来、宗教家は戦争に反対すべきものである」――植木徹誠(大東仁さんの引用より)

「過去の話ではない。今なんです」――反面教師としての歴史から、現在を問い直す

大東さんが3人の僧侶の話を通じて伝えたかったのは、単なる歴史の教訓ではありません。

3人に共通しているのは、反戦と同時に、差別への問いを抱えていたことです。高木顕明は被差別部落の人々への差別と向き合い、竹中彰元は「日本人も中国人も同じ命だ」と語り、植木徹誠は水平社運動とともに差別撤廃を訴えました。

「大谷派が、日本の仏教が否定してきたのは、平等と平和です。この3人が訴えていたのも、平等と平和でした」――大東仁さん

そして大東さんは、「一殺多生」の問題が過去のものではないことを強調します。この言葉が使われ始めたのは平時の1883年でした。戦争が終わればそれで解決する話ではない。少数を切り捨てて多数のために、という論理は、今日の社会にもいくらでも見出せると言います。

「今日帰って新聞を見てください。いくらでも事例が出てくるはずです。過去の話ではありません。戦時の話ではありません。今なんです」――大東仁さん

多文化共生を語るとき、「ともにいる温かさ」を描くことは大切です。しかし大東さんの問いは、その手前にある課題を突きつけます。私たちの宗教は、私たちの社会は、「少数を切り捨てる論理」をいつ、どのように生産してきたのか。そしてそれは今も続いていないか、と。

平和展は次回で37回目を迎えます。「戦争と仏教」というテーマのもとに事実を掘り起こし、問い続けてきた場が、今年も東別院で開かれます。

「その事実、そのネタを出し続けていくのが平和展ではないかな、と思っています」――大東仁さん

過去と向き合うことから、現在の「共に生きる」を問い直す。大東仁さんの実践は、多文化共生をより深く、より誠実に考えるための、もう一つの地平を示しています。

 

大東 仁(だいとう ひとし)
圓光寺 住職/一宮市
一宮市にある真宗大谷派・圓光寺住職。真宗大谷派名古屋教区教化センター研究員、大阪経済法科大学アジア研究所客員研究員。反戦僧侶・竹中彰元の研究者として知られ、著書『戦争は罪悪である――反戦僧侶・竹中彰元の叛骨』を出版。宗教が戦争や差別に加担してきた歴史を宗派内部から問い続ける。東別院「平和展」のスタッフとして、37年にわたり事実を掘り起こし、現在への問いを発し続けている。

ほかの仏共講座#2レポート 予定

▶ 仏共講座#2レポート1
「困っている人は助ける。ただそれだけ──ネパールから名古屋へ、日常として続けてきた共生の実践」 徳林寺前住職・高岡秀暢さんの取り組みから

▶ 仏共講座#2レポート2
「第2の人生をゼロから始めるときに、寄り添える仕事──制度と生活のあいだに立ち、一人ひとりの再出発を支える」 NPO法人名古屋難民支援室・羽田野真帆さんの取り組みから

▶ 仏共講座#2レポート3
「宗教家は、元来、戦争に反対すべきものである──仏教が犯した過ちを問い直し、「平等と平和」を取り戻す」 圓光寺住職・大東仁さんの取り組みから

▶ 仏共講座#2レポート4「「ともにある」ことから、共生は始まる──三者の対話から浮かび上がった、平等と平和の原点」

仏共 (ぶっきょう) 講座 #2 ―お寺とNPOがともに考える多文化共生をめぐる対話シリーズ―
▶︎日時:2026年2月5日 (木) 18:00〜21:30
▶︎ 会場:真宗大谷派 名古屋別院(東別院)
▶︎ 主催:認定NPO法人 アーユス仏教国際協力ネットワーク
▶︎協力:TERA Energy株式会社