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平和人権/中東

平和人権/中東2020/08/12

【街の灯トーク#5】経済危機のレバノンに生きる難民 そしてコロナ禍①


経済危機のレバノンに生きる難民 そしてコロナ禍

ゲスト:田浦久美子さん(パレスチナ子どものキャンペーン)/ 聞き手:枝木美香(アーユス仏教国際協力ネットワーク)
とき:2020年7月2日(木)

枝木 今夜は、パレスチナ子どものキャンペーンの田浦久美子さんとつながっています。田浦さん、こんばんは。

田浦 こんばんは。どうぞよろしくお願いいたします。

枝木 よろしくお願いいたします。田浦さん、パレスチナ子どものキャンペーンでレバノン事業担当をされていらっしゃいますが、入職されたのは何年前ですか?

田浦 4年前です。

枝木 そんなに経つんですね。今回の企画をするにあたって何度か打ち合わせしましたが、レバノンの人に対する熱い思いや悔しさ、そして愛情をひしひしと感じました。今夜はそういったお話を約1時間お願いいたします。
 では、パレスチナ子どものキャンペーンの活動についてと、パレスチナ難民についてからお話いただけますか。


レバノンとパレスチナ難民

田浦 改めまして、パレスチナ子どものキャンペーンの田浦です。私たちは、中東地域を中心にパレスチナ難民やシリア難民の子どもやその家族、障害者への支援を主に行っています。
 1986年にレバノン戦争の被害に遭ったパレスチナ難民の子どもたちのために日本で寄付金を集めるキャンペーンを行ったのがきっかけで、そのままキャンペーンで終わるのではなく、34年間にわたって支援を続けてきています。

枝木 34年前に戦争があったときも、難民の方々が被害に遭ったのですね。

田浦 そうです。キャンペーンで終わるはずだったのが、もっともっと大変な状況になって、支援が続いているところです。

枝木 パレスチナ難民がなぜレバノンにまでいるのでしょうか。

田浦 1948年のイスラエルの建国宣言を受けて第一次中東戦争が勃発しました。70万人以上のパレスチナ人が難民となり、ヨルダンや、今日お話するレバノン、またはお隣のシリアなど周辺国へ離散しました。現地ではナクバ(アラビア語で「大厄災」「大破局」という意)と呼ばれています。
 それ以来、みなさん故郷への帰還を切望しながらも、70年以上にわたって難民として生きてきました。
 当時のことを知っている人はかなりご高齢になっていて、現在第二、第三、第四世代の方々が、レバノンを含む周辺国で暮らしています。故郷のパレスチナは写真やニュースではみるけれど、なかなか行くことができずにいます。かつ当時は70万人が離散しましたが、世代を超えていくごとに難民の数も増えてきていて、今は500万人以上の世界最大の難民グループとなっています。
 当時、パレスチナからレバノンに逃げてきた高齢の方からは、すぐに戻れると思って家の鍵と簡単な荷物だけ持ってきて、それで70年経ったという話をよく聞きます。

枝木 パレスチナ子どものキャンペーンはレバノンのパレスチナ難民がきっかけとなって支援活動を30年以上にわたってされているのですが、現在はどこでどういった活動をされているのでしょうか。

田浦 こちらの地図をご覧ください。

 レバノンでは,パレスチナ難民支援、そしてお隣のシリアから更に難民としてきた難民への支援、刺繍製品を通じての女性の自立支援などを行っています。またパレスチナ自治区のガザ地区とヨルダン川西岸地区では、医療保健支援、教育支援、ろう学校の支援、児童館の支援など様々な支援をおこなっています。

枝木 今日はその中でもレバノンに住んでいる難民の方々の状況をお話いただきたいのですが、まずはレバノンについてお話いただけますか。そもそもレバノンって日本人には馴染みのない国で、私もこの仕事をする前までは、ほんとにどこにあるのか知らなかったんです。

田浦 はい、レバノンは地中海に面している国です。中東の国ではありますが、日本と同じように四季があり、山間部では冬に雪が降ります。夏はわりとカラッとして、冬はほんと雪や雨が降ってジトッとしていますね。中東というと砂漠、暑いというイメージを持たれる方が多いかと思いますが、山ではスキーができて、夏には海で泳ぐことができるところです。

枝木 確か高原もあって、ワイン造りもされているとか? 地中海性の気候で、文化もイタリアっぽいというか、そういうイメージ?があります。

田浦 (笑)食事もとっても美味しくて、アラブの要素もありながら、おしゃれで、内戦前は中東のパリと呼ばれるくらいきれいで金融の中心の場所でもありました。