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特定非営利活動法人アーユス仏教国際協力ネットワーク

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エンゲイジドブッディズム

エンゲイジドブッディズム2023/01/30

【1月】当たり前に疑問を持つ。ミャンマークーデターから2年を前に。


 ミャンマーの軍事クーデターから2年を迎えるこの2月に向けて、アーユスでは関係団体と連帯して「日本とミャンマー 市民の繋がりから未来を考える連続セミナーと集会」を開いています。
 1月17日の第3回には、これまでミャンマーで環境や人権に関わる活動に取り組み、現在はオランダの大学で学んでいるサイサムカムさんにご登場いただき、ミャンマー人として民主主義と平和を求める思いと国際社会に対してのメッセージををうかがいました。
 お話の中で強調されていたことのひとつに、仏教及び僧侶の責任があります。ミャンマーにおいては仏教徒が占める割合は7割を超え、仏教僧は大きな影響力を持っています。政治家と結託して少数民族への暴力に荷担した僧もいます。それは僧侶個人の問題と見做されがちですが、サムさんはミャンマーにおける仏教教団及び仏教理解の在り方を問うべきと指摘します。その中心にあるのは「業」という概念です。
 たとえばミャンマー社会では女性が社会で活躍する場面が増えてきました。しかし仏教教団は未だに男性優位の家父長制が強く、それを維持する根拠とされるのが「業」思想です。女性を始め、現在に理不尽な境遇を強いられている者は、過去の悪業の報いであり自己責任だと見做されるのだそうです。また、現在に酷い行いをしている者も、来世に報いを受けるので現在に裁く必要はない、という理屈も生まれているとのこと。
 サムさんが語るミャンマー仏教界の問題は、2007年サフラン革命時の僧侶デモを眩しく見ていた目からは寂しさも感じます。しかしそれはまるで他人事とも思えません。サムさんはメッセージの最後で「今、当たり前に考えられていることに疑問を持つ必要」を訴えていらっしゃいました。それは、ミャンマーの民衆に向けた言葉であるのと同時に、他国の民衆の窮状を救うことや、他国の仏教者と連帯することなど「ハードルが高い」とつい考えてしまう私たちに対しての言葉とも聞こえたのです。
 ミャンマーにおけるような「業」理解は、日本仏教にもかつて広く見られました。そのように「業」を説き、現実の差別を肯定し維持してきた歴史が日本仏教にはあります。それは間違いだったと現在はされていますが、かといってそれにより日本の仏教が苦悩する民衆に広く手を差し伸べているのか・・・? 今の仏教者の行いをもしかすると全肯定して、疑問を持とうとしていないのではないかと、私にもはね返っています。(アーユス)