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エンゲイジドブッディズム

エンゲイジドブッディズム2021/11/30

【11月】自分と違う他者が存在する世界


 イギリス在住の作家・プレイディみかこさんは、ベストセラーとなった著書『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』の反応にひとつ驚かされたことがありました。この本について語られる感想のほとんどが「エンパシー」という言葉に言及されていたというのです。エンパシーは同書のメインテーマではありません。250ページの中のわずか4ページで触れただけです。それが多くの人の琴線に触れたことはこの社会の何かの反映と言えそうです。

 エンパシーはこれまで「共感」と訳されてきました。一方「共感」には「シンパシー」という訳語もあります。現代日本のさまざまな場面で課題となっている分断を超える術として「共感」はキーワードとなっています。しかしそれにもやもやしたものを感じていた人がシンパシーとエンパシーとの使い分けに出会い、腑に落ちた気持ちになったのではとプレイディさんは予想します。

 ざっくりと言うならば、シンパシーは、相手への同情や友情などの「感情」です。それに対してエンパシーは相手の感情や経験を想像し理解する「能力」を言います。シンパシーは自分と共鳴できる相手に湧くものですが、エンパシーは自分と対立する相手にも働きます。このエンパシーの大切さを私たちはまだ受け止められていないようです。

 日本社会では、「共感が大切」「人のことを考えよう」というのは当然の正しさとして語られます。しかし裏では、そんなのは胡散臭い奇麗事だ、という本音がSNSなどに溢れてもいます。エンパシーはここに、風穴を開ける作用を果たすかもしれません。どうしても愛せない、同意できない人がいて、しかしその人がそう考え行動するに至った背景を想像することは可能ではないかと。いや、想像も不要かもしれません。いろんな人がいるんだね、との頷きだけでその先へのスタートに成りえます。自分とは違う他者が同時に存在しているという当り前の事実に立つことは、厄介なこともあるけれども、実は社会を少し豊かにしているかもとの期待にも繋がりはしないでしょうか。

 「自分とは相いれない人がいることを認め、自分以外の人のためにも動くことが、結果的には自分の利益になる」とクロポトキン(ロシアの革命家)が言っていた、とプレイディさんは言います。ちょっと待ってください。同じことを2000年以上前に説いた方がいますよ。お釈迦さまです。後に続いた僧侶や信者たちが、その自利利他の教えをちゃんと伝え、実践してきたかは反省大ですが。(アーユス)