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平和人権/中東

平和人権/中東2015/05/20

ローマカトリックの司祭との対話


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パレスチナ訪問レポート2:ローマカトリックの司祭との対話

 エルサレムはキリスト教の聖地でもあります。キリスト教とひとことでいってもギリシア正教、カトリック、コプト教、聖公会、プロテスタントなど、多数の教派があり、その中でさらに分かれていたりしますが、今回はコプト教の司祭に続き、ローマカトリックの司祭を訪問しました。

 困難や悲劇に見舞われやすいこの土地で、カトリックの指導者はどのように信者に対応しているのでしょうか。きれい事では済まず、日々試されているはずです。

 そこで、「夫と息子を兵士に殺された女性がやってきて、もう神なんか信じないと言ったら、どう対応されるのですか」と尋ねてみました。

 てっきり慰めの言葉が聞けるかと思っていたのですが、司祭はこうおっしゃいました。「その女性は、もともと神を信じていなかったのだ」と。

 厳しい言葉に一瞬たじろぎましたが、司祭の言葉は真実を映し出していると思います。神は自動販売機ではありません。お金を入れたらジュースが出てくるように、祈ったら御利益があり、自分や家族の安寧が得られるというのは、おそらく信仰とは別のものです。信仰というものは、それぞれの「叶えられなかった祈り」を超えたところにあるものなのかもしれません。

 ちなみに、司祭を訪れる人の中には、「○○してくれないのだったら、イスラム教に改宗する」とか「○○教は××してくれるのに」と言う方たちもいるそうです。これは明らかに信仰ではなく、取引です。信仰や宗教は、取引をしません。また、何かを手に入れるための手段にはなりませんし、逆に自らの目的を遂行するために何かを踏み台にすることもしません。

 パレスチナ問題をはじめとする世の中の紛争の多くは、政治や経済が宗教に取引を持ち込んだり、宗教を自分たちの目的の手段にしたりすることで泥沼化しています。これは、宗教が政治や経済を利用しようとして失敗しているということの裏返しとも言えるかもしれません。そして政治的・経済的な対立が宗教的対立だと読み替えられていきます。

 私たちは政治的・経済的な問題と宗教的な問題を一緒くたにしない程度の知識は持つべきだと思います。また、取引しないこと、損得で考えないこと、自分や他者を手段とみなさないという宗教的価値を再確認することで、政治や経済による宗教の悪用を防ぐことができるのではないでしょうか。おそらくこれは、世界中の宗教者が集まって話し合うに足る課題ですし、アーユスとしても取り組むべきもののような気がしました。(K)