今年11月13日、詩人の谷川俊太郎さんがお亡くなりになりました。92歳でした。
おそらく、教科書に最も多く作品が採用された詩人と思われます。とても日常的な言葉選びと表現を用いながら、紡ぎ出した世界は実に多岐に渡りました。詩人の山田兼士さんは谷川さんを、「彼を抒情詩人と呼ぶことはできない。また、多くの〈こどもの詩〉を書いているにもかかわらず児童詩人や少年詩人と呼ぶこともできない。同様に、リアリズム詩人、幻想詩人、生活詩人、宇宙詩人、未来詩人、自然詩人、などと呼ぶこともできない。なぜなら、彼はそのすべてであるからだ」と評しています。
その評に同意しながら、あえてひとつ選ぶならば、谷川さんは「反戦詩人」だったと思います。
1952年に刊行された第一詩集『二十億光年の孤独』には次のような詩が収められています。
「呪いのみが私を支える/無知と傲慢とが/ひとつの法則を畸形(きけい)にする/そこからすべてがひびわれてくる/やがて無が蕈(きのこ)のかたちをして/一瞬宇宙を照らすだろう」
終戦から7年後に編まれたこの詩集にあるのは、原爆への強い否と、それを生み出し使用した人間の無知と傲慢が明確に批判されています。
また、1984年刊行の『詩めくり』にはこんな言葉があります。
「私の核弾頭付ミサイルどこへ置いた?/と妻がきいた/冷蔵庫の上/と夫が答えた」
核兵器がタブーではなくなり、再び使用される可能性が生まれたことへの危機感と、それへの世間の関心の薄さが指摘されているようです。
平易な言葉で平和を希求し、いのちの尊さを訴えてきた谷川さんの詩は、谷川さんが亡くなっても輝きが薄れることはありません。しかしそれが誇れることでは必ずしもないことも谷川さんは記しています。以下は2015年刊行『詩に就いて』所収の一節です。
「詩はホロコーストを生き延びた/核戦争も生き延びるだろう/だが人間はどうか/真新しい廃虚で/生き残った猫がにゃあと鳴く/詩は苦笑い」
人が滅んで詩だけが残ることは、詩にとっても敗北のはずです。詩に孤独な苦笑いをさせないことは、その言葉に胸を震わされた者の責任に他なりません。(アーユス)