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エンゲイジドブッディズム

エンゲイジドブッディズム2022/07/26

【7月】「葬」とは厳粛な場であるはず。


 朝日新聞の川柳欄に、安倍元首相銃撃事件を風刺する作品を掲載したとして、抗議を受けた朝日新聞が「ご指摘やご批判は重く、真摯に受け止めています」とのコメントを出しました。

 しかし当該の川柳は今も朝日新聞のデジタル版に掲載中です。批判は受け止めたけれども従うことはしない、という表れでしょうか。批判された川柳は、批判者が言うような安倍氏や事件を茶化したものではありません。「国葬」への疑問を作品化したものです。それに対して不快感を抱いた人が一定数いたという事実が、安倍元首相の「国葬」を巡る問題点を示しているように思うのです。

 岸田首相は7月15日、国葬を行う理由について「活力にあふれた日本を受け継ぎ、未来を切り拓いていくという気持ちを世界に示していきたい」と述べています。東京オリンピックの前にも同じようなセリフを聞いたような。オリンピックがアスリートファーストとは見えなかったのと同様、国葬も故人の追悼とは別の文脈に置かれているように思えてなりません。

「追悼」は故人に思いを馳せ、その死を嘆き、故人が存在したという事実を胸に刻む行為です。

 一方今回の「国葬」は、故人を悼むより、故人および政権の不具合不都合から目を逸らさせるような思惑の色が濃いと感じます。国民の中に多様な意見と心情があることを踏まえてか、岸田首相は今回、国民に服喪を求めるものではない、また、休日にもしない、と言っています。それならなぜ国葬なのか、という理由は不明ですし、決定へのプロセスも拙速でなし崩し的と思えてなりません。

 また、国葬は有効な外交の場なのだという意見も聞きます。それも一面ではあるのでしょう。それならプーチン氏を招待しないとの政府筋の判断に疑問を感じます。その後にロシアからもプーチン氏の来日はないと発表されましたが。一方で、ミャンマー国軍へ招待状を送ったとも報じられていますが、その基準に整合性が見られません。「国葬」がいろいろな場面や意味で「お墨付き」を与えるものでないよう望みます。

「葬」という場は厳粛なものです。そこにはいろいろな社会的役割があることをふまえた上で、「利用」することには抑制的であって欲しいと思います。それが「葬」に関わる者の礼儀だと改めて思うのです。(アーユス)