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特定非営利活動法人アーユス仏教国際協力ネットワーク

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エンゲイジドブッディズム

エンゲイジドブッディズム2021/04/26

【4月のメッセージ】ミャンマーを思う


 ミャンマーで国軍によるクーデターが起きてから3ヵ月が過ぎようとしています。この間アーユスは日本国内でできる支援として、外務省に対してODAなどの公的資金が国軍に流れることのないよう申し入れるとともに、関係企業へ事業の見直しを提言してきました。
 その過程でも理解に苦しむのは、国を守ることを旨とする軍隊が、なぜ自国民に対して発砲することができるのかということでした。
 そんな中、目にとまったひとつの手記がありました。「ビルマの危機の中で兵士の息子であること」と題されたその文章は、国軍の大将を父に持ちながら、軍事政権に反対している一人の若者によるものです。
 若者は、兵士たちとの会話を重ねました。みえてきたのは、兵士たちは命令によってロボットのように市民を殺害しているのではなく、思い込みともいえる狭隘な思想が彼らの非人道的な虐殺すら正当化しているということ。
 兵士の多くは政治と宗教に関して共通した狭い理解、即ち、反アウンサンスーチー・反NLD・仏教ナショナリズムをすり込まれています。アウンサンスーチーは、外国人の家族を持ち、ロヒンギャのために動く外国勢力につながっていると見なされています。彼らの情報源はソーシャルメディア。そこにはヘイトスピーチやフェイクニュースが横溢していることは洋の東西を問いません。その価値観に立つと、クーデターに反対する市民は犯罪者にしか見えないというのです。
 この事態に宗教、それも仏教が関わっていることに忸怩たるものを感じずにはいられません。あるジャーナリストから、ミャンマーではビルマ族の仏教徒が一番上にきて、その下が少数民族の仏教徒、そしてビルマ族の他宗教者と続くヒエラルキーがあると聞いたことがあります。ある宗教に属することで優越的立場を得られるという状況が、宗教を変質させてしまった歴史は日本にもありました。それは宗教の非力を示すというより、人間とはそういう存在であり、だからこそ人間には宗教が必要なのだと思えるのです。自らを省みる宗教が。
 抗議運動にはそれを率いるリーダーは見当たりません。クーデターへの抗議、それぞれが民主的で自由に発言ができる未来を望む気持ちが自然発生的に行動へ至っていることが、まだ兵士たちには見えていないようです。不服従運動に参加している人が望むのは、アウンサンスーチーの解放やNLDの復活ではなく、少数民族も含む平等で自由なミャンマーの未来ではないでしょうか。その目を開かせる上で、海外からの私たちの注目と声が一助になることを願わずにはいられません。(アーユス)

参考文献 Center for Southeast Asian Studies
Asian Institute
 Tea Circle  “Critical Juncture: Being a Soldier’s Son in Burma’s Ongoing Crisis”