エンゲイジドブッディズム
エンゲイジドブッディズム2025/10/30ツイート
【11月】「解放」と「引き締め」の先には
歴史家・益田肇さんの近刊『人びとの社会戦争』(岩波書店)を興味深く読みました。
益田さんは「日本が戦争に突き進んだ理由」を研究していらっしゃいます。一般に「軍部が暴走し、国民は戦争に巻き込まれた」という図式で理解されがちですが、実際には国民も戦争を賛美していた事実はあります。益田さんはその「魅力」を、当時の人びとの日記などから読み込んでいきました。
そこから見えてきたのは、各人がもともと持っていた不満や課題の解消への思いが、国防や愛国の理屈と重なっていった姿です。
中でも、大正から昭和へ移った当時の空気の変化はとても興味深いものがあります。益田さんは朝日新聞のインタビューでこう語っています。「大正期は『解放の時代』で、多くの人びとが『らしさ』からの脱却を図っていた。女性が良妻賢母以外の生き方を求め、男性も香水をつけ、労働運動や朝鮮人の権利運動が活発になった」「同時に、自由を唱える者への反発がくすぶり始めた」「お仕着せの『らしさ」ではなく自分らしさを重視する『個人主義』や『多様性』にいら立つ人びとにとって、民主主義は調和を乱す元凶」「この『機能不全』を克服し、一体感と調和を取り戻そうと願う人びとが、戦争や全体主義の流れに重なった」
益田さんは、人びとの「解放」と「引き締め」をめぐる社会戦争の先に戦争があり、それは国家と国民のいずれかが主導したのではなく、相互作用がもらたしたと分析します。さらにそこにはメディアの役割も極めて大きかったと。
益田さんが注目した大正から昭和の時代の空気が、現代とあまりに重なります。日本国内では、性的多様性への理解や選択的夫婦別姓を求める声が高まる一方で、それらへの忌避感を隠さないグループが声をあげています。海外でも、自国ファーストが打ち出される背景には、「多様性」を巡る社会戦争が存在していたのだろうと想像できます。私たちが歴史を学ぶことの意味は、時代を隔てた人びとがした選択を高所から断ずることではなく、それを繰り返しかねない我が身ではないかと点検をすることなのでしょう。(アーユス)





