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特定非営利活動法人アーユス仏教国際協力ネットワーク

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その他の地域2016/12/27

熊本地震の被災地の現状を知り、水俣病の現実を学ぶ


 今年の国内スタディツアーは12月5日から7日まで熊本を訪問しました。目的は、今年4月の熊本地震でアーユスが緊急募金を集めて緊急救援やその後の生活支援等に協力し、現在も継続的に支援活動を行っている団体を訪問し、震災からの復興に向けて歩んでいる被災地の現状を視察すること。それとともに、被災者や支援者との対話を通して、今回の地震によってもたらされた様々な助け合いの動きや、被災地や被災者が抱える様々な問題を考えること。さらに、日本の高度経済成長期に発生した四大公害病の一つである水俣病の歴史を知り、苦難を克服してきた経験や語り継ぐ人たちの思い、様々な地域発の取り組みについて学ぶことでした。困難に寄り添いつつ、互いに助け合おうとする人たちの姿から、熊本地震や水俣病という震災や公害の現実を受け止め、前向きに生きていこうとする人たちのさまざまな思いに触れる旅となりました。

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 まず訪れたのが熊本地震の被災地である西原村と御船町。西原村では被災地NGO恊働センターの頼政さんと鈴木さんに、御船町ではレスキューストックヤードの松山さんにそれぞれ地震で地崩れが起きた現場や家屋が倒壊している様子、仮設住宅などを案内していただき、被災した方々からお話を伺うことができました。

 被災地NGO恊働センターは西原村で、炊き出しや親子カフェ、足湯ボランティアなどを実施する傍ら、災害ボランティアセンターの運営サポートや地元NPOの立ち上げを支援するなど多様なニーズに応えてきました。また、北部九州からのボランティアバスの運行を企画するなど、長年にわたって日本国内の様々な災害現場で救援活動を行ってきた経験をもとにきめ細かい支援を行ってきました。今後は、復興に向けてどのように「暮らし」を取り戻していくのか、新たな地域づくりをどう進めるのか、共に悩みながら地域の人たちと一緒に考えていく座談会や勉強会を開催していくとのことです。

 詳細ページ→http://ngo-kyodo.org/kumamoto/index.html

 西原村では仮設住宅で足が不自由な方からお話を伺いました。地震前は外を出歩くことは少なかったようですが、地震後に多くの人と出会ったことで人と仲良くしていきたいと強く思うようになったとのこと。避難所では不自由な生活を余儀なくされたものの、人との繋がりで助けてもらったことに感謝の気持ちを強く持ったと言います。また、本音をなかなか言い出せない人が多い中で、仮設住宅のスロープやトタン屋根の設置を行政に訴えたところ要望が聞き届けられて設置が実現したそうです。このように、いまでは自ら積極的に被災者として窮状を訴えていますが、被災地NGO恊働センターの人と出会って励まされなかったらこのようなことは出来なかったと強調されていました。こういう経験を経て、今では被災地外から来る人にも積極的に自分たちの話を聞いてもらうように心がけているそうで、非常に前向きな姿勢に好感が持てました。

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 一方、レスキューストックヤードは御船町で7月までは緊急支援として炊き出しや足湯ボランティア、避難所の環境改善、子どもの遊び場づくり等を実施しました。7月以降は、仮設住宅への移行支援を本格化させ、応急仮設住宅・集落の集いの場づくりとして、応急仮設住宅に設置された集会場・談話室でのサロン・昼食会の開催や、集落での陶器市の開催を行っています。

 詳細ページ→http://rsy-nagoya.com/rsy/blog/category/2016年熊本地震災害

 御船町では仮設住宅の自治会長を務める方からお話を聞きました。九州男児らしく「どげん」「ばってん」を連発させながら、仮設住宅の集会所にどうしたら人を集められるのか四苦八苦されているとのこと。この近辺の仮設住宅では、地域支え合いセンターの生活支援相談員が週1回サロンを開いているようですが、それ以外に住民が集まる機会というのが限られているそうです。地域ごとにまとまって仮設住宅に移り住んだわけではないため、仮設の住民同士が気軽に話し合えるようになるまで半年近くかかったと言います。以前、福島県の南相馬市の仮設住宅でJVCと地元NPOによるコーディネートでサロン活動が活発に行われていたのを見ましたが、しがらみのない外部の団体が結節役として住民をつないでいく役割がいかに必要で大切かを改めて考えさせられる機会となりました。

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 夜は、熊本の郷土料理を囲みながら、地震発生から熊本市内で外国人被災者への緊急支援活動を行ったコムスタカー外国人と共に生きる会の中島さんと熊本市国際交流振興事業団の八木さんからお話を伺いました。コムスタカは、震災前から在住外国人からの人権や生活に関する無料相談やDV被害者の外国人母子家族への支援、移住者問題に関する啓発活動、行政への政策提言等を行ってきました。震災時、熊本市国際交流振興事業団が運営する熊本市国際交流会館が臨時の避難所となり、同会館が日本人とともに外国人の被災者も受けて入れていた関係で、炊きだしなどの被災外国人への緊急避難生活支援、地震関連の多言語情報の発信が行われました。その後は、特に被災した外国人の住宅確保や就労支援などの生活自立支援を行ったそうです。熊本市国際交流会館は、避難者100名未満の規模の小さい避難所でしたが、公的機関と民間団体の連携で、熊本地震の被災者救援活動の拠点として地元の新聞でも大きく取り上げられ、注目を集めています。

 詳細ページ→http://www.geocities.jp/kumustaka85/intro.html

 http://www.kumamoto-if.or.jp/topics/topics_detail.asp?PageID=6&ID=8887&LC=j&type=1

 今回の地震では、事前に全く予想していなかった事態の中でも官民連携がうまく機能して、外国人被災者への救援活動が進んだことは評価できる反面、日頃から外国人向けに防災意識を高めてもらうような仕掛け作りや、関係機関が密接に連絡を取り合って外国人向けの防災マニュアルや情報発信・提供のメカニズムを構築しておくことの重要性を認識したとのこと。今回の事例を他の地域にも伝え、同じような事態が起きたときにしっかりと対応できるようにしていきたいと抱負を語られました。

 

 スタディツアーの後半は水俣市を訪問し、水俣病について改めて問題の本質を学ぶことを目的に、アーユスの会員寺院である西生院の濱田住職のご案内で、水俣病資料館や水俣病センター相思社などを訪問し、関係者から詳しく話を聞くことができました。

 水俣市はもともと熊本県の南端にある不知火海に面した小さな農漁村でしたが、1908年にチッソ水俣工場が建設されると次第に熊本県でも有数の近代工業都市へと発展を遂げました。チッソ水俣工場は、1932年にビニール製造等に必要なアセトアルデヒトの製造を開始。その過程で副生されたメチル水銀が工場排水と共に水俣湾へ排出され、それらが魚介類に蓄積し、その魚介類を食べた住民の中から、口がきけない、歩くことができない、などの重い症状を訴える人が現れ始め、1956年に水俣病は公式確認されました。日本政府が水俣病を正式に公害病と認定したのは1968年9月。チッソ水俣工場がアセトアルデヒトの製造を中止した1968年5月から4ヶ月後のことで、公式確認から12年もの月日が経っていました。2016年1月現在、行政によって水俣病と認定された患者数は熊本県・鹿児島県で合わせて2278人。未認定患者を含めて健康被害を受けた人は1万5千人を超えるとも言われていますが、その大半は様々な理由で水俣病であることを名乗りでていない・出られない人たちです。

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 水俣病資料館は、水俣病を風化させることなく、公害の原点といわれる水俣病の貴重な資料を後世に保管し、あってはならない水俣病、水俣病患者の痛みや差別を受けたつらい体験を展示する水俣市の施設で、水俣病の苦しみに負けずたくましく生きることの尊さと、水俣病に対する認識を深めるために、患者および患者家族の方から貴重な体験を直接聴講できる「語り部制度」には毎年多くの人が聴講しています。現在13名登録されている語り部の中で、川本愛一郎さんのお話を伺いました。

 詳細ページ→http://www.minamata195651.jp/guide.html

 川本さんは、「水俣病」と呼ばれていること自体に違和感を抱き、一連の出来事を「水俣病事件」と呼び、その悲劇を伝えてきました。水俣病事件の悲劇は、第一に食卓から起こったこと(毒入りの魚介類)。第二に水俣病の原因となったメチル水銀を垂れ流したチッソと国はそれが毒であると知りながら流し続けたこと。第三に人命よりも構造的利益が優先されたこと、の三点によって被害が拡がってしまったところに大きな問題があります。川本愛一郎さんの父親の川本輝夫さんは水俣病被害者の中でも自主交渉派と呼ばれる人たちのリーダーでした。「水俣病過激派患者」とも呼ばれ、度重なる嫌がらせにも屈することなく、未認定患者救済の道を切り開きました。輝夫さんは「人は幸せになるために生まれてきたはずだ」という信念を持って、チッソとの直接交渉のため東京のチッソ本社前に座り込み、1年7ヶ月後にチッソから補償協定を勝ち取りました。愛一郎さんはこうした父の活動を「人間の尊厳を取り戻す闘い」だったと振り返ります。輝夫さんは1999年に肝臓ガンで67歳で永眠しましたが、水俣病事件はまだ解決していません。愛一郎さんはこれからも父輝夫さんの勇気の物語を多くの人に伝えながら水俣病事件の悲劇を伝えていきたいと抱負を語ってくれました。

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 最後に訪問した水俣病センター相思社では、常務理事の永野三智さんにお話を伺いました。相思社は水俣病の患者と支援者によって設立され、現在に至るまで認定患者側と未認定患者側の両方の存在によって活動が成り立っています。永野さんは水俣出身ですが、タイへ旅行に行ったときに水俣出身であることを告げると「うつるんじゃないか」と言われた経験があって、水俣出身であることを恥ずかしいと感じていたそうです。東京で水俣病に関する集会に参加したときに、水俣病患者が自ら患者であることを隠さずに話していた姿に衝撃を受けたとのこと。社会の中で理不尽な状況に置かれた人たちに会って力をもらい、もっと学びたいと思って水俣病の裁判に関わるようになったそうです。そして「水俣病がない社会=人間として生きていける社会」にしたいと思い23歳で水俣に戻り、病院で患者さんを守る活動を始め、2008年から相思社で働くようになりました。2013年までは友だちにも水俣病に関わっていると言えなかったそうですが、同年患者側の勝訴判決が出てテレビや新聞に数多く出たことから肝が据わり、以後は水俣病に関して正しい知識を伝えていかなければとの思いで各地を飛び回る日々を送っています。穏やかな表情で語りながらも、水俣という土地への愛着とここで骨を埋める覚悟であるとその決意を語ってくれた永野さん。まだ30代前半でありながらも芯の通ったその姿勢は、まさに市民活動を担う活動家そのもので、限られた時間の中で貴重なお話を伺うことができて大いに感銘を受けました。

 詳細ページ→http://www.soshisha.org/jp/

 こうして2泊3日のスタディツアーはあっという間に終わりましたが、お会いしたどの方も被害の実態や自分が置かれた状況について熱く語られて、普段の生活では得られない気づきや学び、感動を得ることができました。熊本地震の被災地では、被災した方々やそれを支援する人たちの声を聞くことによってこの震災で地域社会にどのような影響が及ぼされたのかを肌で感じることができました。そして何よりも、困難から立ち上がろうと前を向いて力強く歩み出している人たちの姿に心を動かされました。それとともに、被災地にはまだ取り残されている人たちが大勢いて、そのような人たちを励まして少しでもいい状況へと好転できるように日々奮闘している人たちの姿も印象に残りました。

 また、水俣で起きたことは日本全体いや全世界で起きている構造的な問題として捉えるべきことを強く感じました。被害者の多くは海沿いに暮らしていた経済的に貧しい人たちでした。日々の食糧を水俣湾で取れる魚介類に依存していたことから被害が広がってしまった側面があります。しかもチッソ水俣工場で働くために戦前に天草などの島々から水俣に移り住んだ人たちも被害を受けた人が少なくないそうです。一方、チッソの幹部が多く居住する地域では被害はそれほど深刻にはならなかったと言います。あれほどの被害をもたらしたチッソですが、今でも水俣市街地の中央に工場を構え、水俣の人たちが大勢働いています。水俣病を恨む気持ちがある一方、チッソによって町の経済が成り立っていることも確かです。こうして複雑な感情が入り乱れながらも、公式確認から60年が経って、水俣の街は水俣病という悲劇を乗り越えて、今では環境モデル都市として資源循環型社会の構築に向けた取り組みが盛んに行われています。

 水俣病を生んだ構造は、福島の原発事故を起こした構造とも相通じるように思います。大規模な環境汚染・破壊を招いたこと、被害者に対する不十分な補償、被害の実態を隠そうとする隠蔽体質、国と企業との癒着、責任を取ろうとしない姿勢、必要な情報が行き届かない縦割りの弊害、等々。60年ほど前の過ちが教訓として全く活かされず、上記の様々な弊害が放置されたまま、同じ悲劇を繰り返しているように思えてなりません。今一度、私たちは60年ほど前の水俣で何が起きていたのかを正確に学ぶ必要があると思います。