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エンゲイジドブッディズム

エンゲイジドブッディズム2022/12/27

【12月】過去と未来に恥じない気持を


 2022年に亡くなった著名人のひとり、サッカー日本代表チームの元監督、イビチャ・オシム氏は、哲学的とも言える諸々の発言が印象に残ります。あるインタビューでのこと。「監督の、何事にも動じない精神、他文化に対する許容力の高さは、故国での過酷な戦争体験から生まれたのではないか」という問いに対して、オシム氏は「それは違う」と答えました。そしてこう続けたのです。「私が戦争によって何事かを学べたとしてしまうと、私にとって戦争が必要だったということになってしまう。それは認められることではない」と。

 この言葉は、今年の国内最大ニュースと言える、安倍元首相襲撃事件後のさまざまな動きに重なって響きます。旧統一教会をめぐる問題。また、オリンピックの汚職問題。これらが表に出てきたのは、安倍元首相の死去があったからとの見方も穿ち過ぎではないと思います。ただしそれは、元首相暗殺を肯定するものではまったくありません。

 問題は、元首相が亡くなるまで、本来問うべきことが問えなかった構造が多々存在していたということです。問題の存在は認識されながらも是正への動きとならなかった原因はどこにあるのか。その構造への批判的視点が重要です。それがないところでは、元首相暗殺が「必要悪」であったとして、次の事件さえ招きかねません。

 戦争も暗殺も必要悪ではありえません。それらを「必要悪」などとしない第一の鍵は、これまで問うべきことを見過ごしてきたことへの「慚愧」を持ち続けられるかにあると思います。「慚愧」とは仏教用語で「恥じる意識」を言います。愧は天に対して感じる心です。昔は「お天道さまに恥じないよう」などと言われたものです。慚は人を前にして感じる心です。ここでの「人」は、現在に相対している人だけを言うのではありません。過去に生きてきた多くの人たちをも含みます。さらには、未来に生きる人をも含むと言っていいでしょう。

 慚愧は責任感とセットです。過去からの歴史と未来からの預かり物を担っている者として、慚愧の心をバネに進みたい。新年を前にそう思うのです。