平和人権/中東
平和人権/中東2015/03/16ツイート
コプト教司祭との対話
コプト教司祭との対話
パレスチナやイスラエルというと、「イスラム対ユダヤ」という図式を思い浮かべがちですが、実際にはキリスト教をはじめ、様々な宗教が根を下ろしています。今回は東エルサレムで、コプト教の司祭とローマカトリックの司祭からお話を伺う機会がありました。まずコプト教の司祭との対話を振り返ってみたいと思います。
コプト教は、日本ではあまりなじみがないかもしれませんが、紀元1世紀ごろからエジプトで独自の教義を発展させた東方教会系のキリスト教の一派です。アラブ・イスラム世界でマイノリティというだけでなく、キリスト教の中でも異端扱いされた歴史があり、二重の意味でマイノリティです。
コプト教徒は虐げられる人の痛みをよく知っているのでしょう。司祭によると、1948年のイスラエル建国の際に住処を追われて難民となった人々のために、コプトの教会はいち早く門を開き、修道院を難民の住居として提供したそうです。その姿勢は今も貫かれており、難民への住居提供や金銭的な支援を行っているほか、問題を抱えた子どもたちを受け入れる学校を敷地内で運営し、ムスリムの子どもたちも受け入れていました。
そんなコプト教では、「暴力」についてどう考えるのでしょうか。
「右の頬を打たれたら、左の頬をも差し出すのがコプトだ」と切り出した司祭は、「ただし、対話する努力をしてからだ。馬鹿みたいに、さあどうぞ殴ってくださいなんてことはしないよ」と付け足しました。
彼らの信仰は「神が守ってくださる。だから人間が復讐したりする必要はないのだ」という言葉に表れています。裁かず、赦すのが彼らの神なのだとすれば、暴力をふるう人間を赦すということが即ち、神の加護によるものなのかもしれません。赦された暴力は、赦された時点で、暴力ではないものに変容するような気がしました。
実は司祭を訪問したのは、リビアでエジプト人のコプト教徒21人が過激派組織「イスラム国(IS)」に斬首されるという事件が起こったタイミングでした。そんな状況においても、政治には関わらないと断言していたことが印象に残っています。これは決して消極的な態度などではなく、むしろ宗教が政治に利用され、新たな暴力を生み出すことをきっぱりと拒否する姿勢です。宗教が政治に利用されてしまう現実を、誰よりもよく知っているからこそでしょう。
もちろん、これは社会的な取り組みをしないという意味ではなく、難民に修道院を開放したように、政治とは違うアプローチで人々の苦しみを軽減するという強い決意に裏打ちされたものであります
コプト教は平和の宗教であると司祭は何度も言いました。彼らの神はコプト教徒以外の人びとも救います。全ての命は聖なるものだと考えるため、危害を加える人たちのことも区別せず、彼らのためにも祈ります。だから仏教徒であろうと、ユダヤ教徒であろうと、平和のために共に働くつもりであり、可能なら日本にも行きたいとおっしゃっていました。
長い人生で、辛酸をなめることも多かったであろう司祭の、穏やかで少しお茶目な様子は、赦しと平和というものを体現しているように感じられ、非常に説得力がありました。おそらく今日もコプト教徒は、誰かを赦すことで世界における暴力の総量を減らすことに貢献してくれているのでしょう。日々の暮らしの中で、私たちもそこに加わることができるのではないでしょうか。
さて、最後にコプトの平和の祈りをリクエストした我々のために、司祭の側近が「O King of Peace」という賛美歌の英語版をiPadで聞かせてくれました。ご参考までにリンクをはっておきます。歌詞には「神は慈悲をお持ちである」という言葉が繰り返し出てきます。平和というのは全てのいのちに慈悲が与えられていると実感できることなのかもしれません。
英語版: http://deacontube.com/index.php/media-gallery/189-o-king-of-peace-epooro-holy-pascha-english
コプト版: https://www.youtube.com/watch?v=nahZfa_yuDQ
(K)