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エンゲイジドブッディズム

エンゲイジドブッディズム2025/05/02

【5月】慣性の法則の中で生きる私


 今年は、オウム真理教による地下鉄サリン事件からちょうど30年になります。
悲惨な大事件として記録に残っていますが、実際の現場では少し趣が違ったようです。
 作家の辺見庸氏は、事件の朝、神谷町駅を通りかかりました。ホームに降りる階段に、うずくまってる人が数人います。街行く人は誰も気に留めることはありません。そこへまた駅員がぐったりとした人を抱えるように階段をあがってきます。何かあったのですか、と聞くと、「なんだか、今日は具合の悪くなる人が多いですね」。緊迫感はまったくなかったとのこと。
 不審に思いながら改札口に進んだ辺見氏が見た光景。それを氏は、とても「奇妙」だったと表現します。駅構内に、手足を投げ出してぐったりと横たわる人々。そして、その手足をまたぎながら、まったく普段の日常そのままに改札口を抜けていく大多数の群衆。辺見氏は倒れている人々を運び出そうとホームへ出ようとすると、自動改札機に阻まれます。駅員は「お客さん、切符を買ってください」。日常と非日常が混濁しています。
 そうこうしているうちに、警察が到着し、駅入口にロープが張られます。ロープの外では現場を全く見てもいない記者たちが、「恐怖と混乱の極でパニックにある現場」の様子を興奮気味に発信しています。そのレポートからは、辺見氏が体験した「奇妙」なニュアンスはまるで受け取ることができません。 サリンの被害を受けた人の少なからずが、駅構内に倒れる人に目もくれずに会社へ急ぐ人々でもありました。会社で事件報道とその被害者の症状を聞き、初めて自分の症状に気付いたという人が少なくなかったのです。
 周りの事態に鈍感なだけでなく、自分の状態にも鈍感。それはあの場に遭遇した人だけのものではなく、私たちが皆共有している心性ではないでしょうか。辺見庸氏は、私たちは悲しいくらいに「慣性の法則」の中で生きていると指摘します。自分の持っている知識・価値観に従って、いったん動き出してしまえば少々のトラブルには立ち止まることもなく「日常」を遂行し、止まったならば今度はかなりの異変にも動くことはない。あくまでも自分の価値体系でしか物事に相対することをしない。それがどんなに危ういことであるかを改めて知らされます。
「慣性の法則」に流されたいのは人間の本性なのかもしれません。眼の前の変化に丁寧に心を留めていくことの大切さを仏教では「諸行無常」と呼び、仏教の根幹として教えてきました。そのことは逆に言えば、物事を丁寧に受け取ることがいかに難しいかの証左かもしれません。(アーユス)