表に見えるものが全てではない
NHKの連続テレビ小説『エール』が佳境を迎えています。この10月に放送されていたのは、戦争の渦中で自身の責任の負い方を突きつけられた登場人物たちの姿でした。
主人公の作曲家・古山裕一は、国中が戦争に沸き立つ中で、音楽しか能がない自身の価値を見失っていた折り、戦意高揚の曲を求められ、それが世間に流布したことで社会貢献の喜びを感じていました。しかし慰問先で戦場の実態を垣間見、そこへ若い兵士たちや自分の恩師を送り込んだのが自作の曲であったと、強い自責の念に苦しむのです。それは戦後、周囲から「かつて戦争を煽った者」と罵られることによってより強いものとなりました。
裕一の友人の歌手・佐藤久志は、戦時歌謡を歌って戦中は大変なスターでしたが、戦後は一転してまるで戦犯のように疎まれるようになり、帰る場所を失って自堕落な生活に浸っています。
裕一の義兄・関内智彦は、戦中は軍人として全てを国に捧げることを使命とし、戦後はそれがまったく価値を失っただけでなく世間からの蔑みの対象にさえなったことに当惑しています。
人びとの不満は、その事態をもたらした政府や軍の責任を問うより先に、目先の者に向かいます。反目する必要のない者どうしが敵対し、弱い者が弱い者を叩く、その悲しい状況は現代の反映と思えてなりません。
裕一と久志は、音楽によって絶望に追い込まれました。しかし、その二人に生きる力を与えたのも音楽でした。その模様は、自分たちが闘ったり克服する相手を見間違えないようにという警告のようにも見えます。
裕一のモデルとされる古関裕而は、終生、自身の戦中の仕事に責任を感じていたと伝えられます。戦後に古関が生み出した数々の曲の根底には、当人の後悔の呻きが響いていたのかもしれません。表に見えるものだけがすべてではなく、すべてを想像できるものでもありません。人と生きるということは、思いが及ばない過去や内奥まるごとへの敬意を持ち続けることでしょう。(アーユス)