東京都墨田区の都立横網町公園で毎年9月1日に「関東大震災朝鮮人犠牲者追悼式」が営まれています。震災の混乱の中、流言飛語から市民らにより数千人もの朝鮮人が虐殺された事実を悼み伝えるもので、歴代の都知事は追悼文を寄せてきました。しかし2017年、小池都知事は「災害に付随して亡くなった方々は、国籍を問わず多かったと思う。全ての方々への追悼をしたいという意味から、個別の追悼を控えた」として追悼文寄稿を取りやめます。
その同じ年から、横網町公園でもうひとつの集会が行われるようになります。「真実の関東大震災犠牲者慰霊祭」。震災時の朝鮮人虐殺はあったとしても少数で、震災の混乱に乗じた朝鮮人たちの暴虐犯罪への自衛行為だったと主張する集会です。昨年の慰霊祭では大音量の暴言により追悼式の妨害を行い、東京都からヘイトスピーチに認定されています。
さて今年。東京都は、追悼式と慰霊祭の双方に「管理上支障となる行為は行わない」とする誓約書の提出を要請します。騒ぎを起こした側と起こされた側を同等に扱うのは不当であるとの追悼式実行委員会からの抗議により撤回となりますが、慰霊祭の開催も認められます。「ヘイトの認定は発言についてであって、集会自体をヘイト認定したものではない」という判断からです。
思い出すのはイギリス映画『否定と肯定』です。ホロコーストを否定する歴史修正主義との裁判闘争を描いたこの作品の原題は『Denial(拒否)』。暴論への毅然たる態度を示したものです。しかし日本版タイトルからは両論の対決と受け取れます。それは暴論に一定の地位を与えるものです。
東京都が追悼式と慰霊祭を「公平」に扱うのは、一見中立なようですが、結果的には慰霊祭寄りになってしまっています。公平は必ずしも公正ではありません。「公平」や「中立」に隠れた不公正に対して、否を示し続ける必要を感じます。(アーユス)