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エンゲイジドブッディズム

エンゲイジドブッディズム2019/02/25

【2月のメッセージ】ポールを想う


 ポールのことを思っている。ボール・マッカートニーではない。ポール・プレンター。映画『ボヘミアン・ラプソディ』において、唯一最大の悪役を担った人物だ。

 伝説のロックバンド、クイーンのボーカリスト、フレディ・マーキュリーの人生を描いた映画『ボヘミアン・ラプソディ』は大ヒットを続け、アカデミー賞の複数部門で有力候補にもなった。同映画は、移民の子であり、親からも認められず、容姿にコンプレックスがあり、当時のイギリスではほんの数年前まで違法でさえあったゲイでありながら、特定の女性に生涯思いを寄せたフレディの、何重にも及ぶ屈折とそこからの解放を描ききったと評される。それは間違いではない。が、ここにあるのはフレディひとりの苦難と栄光ではない。時代の中で苦渋に沈んだ名も知れぬ人々をポールが体現しているのだ。

 フレディにゲイを自覚させて最愛の恋人と別れさせ、バンドが分裂休止する原因を作り、フレディの体調にかまわずパーティーを重ね、ライブエイドの要請も隠し、クビにされればゴシップネタを売りとばす。そんなポールは「ベルファスト出身のカトリックでゲイ」だった。

 ベルファルトを首都とする北アイルランドではカトリックは少数派であり、だから余計に信仰は強固になる。その家族の中にゲイとして生きてきたポールは、「スターにならなかったフレディ」なのだ。底知れぬ孤独にあっただろう彼は、フレディと同じ年にやはりエイズで亡くなっている。そして、彼が悪役として描かれたことに傷つくような遺族は存在しないと言われる。

 映画はフレディの、家族、仲間、恋人、友人、そして自分自身との葛藤と和解の物語だ。この映画のヒットが、マイノリティを理解し、受容するまなざしの反映とするならば、それは希望に違いない。しかしその裏に、和解に至らなかった多くの者の存在があることへの想像も欠かしてはならないだろう。

*アーユスニュースレター126号より。