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国際協力の寺

国際協力の寺2016/05/30

釜ヶ崎フィールドスタディ「救いと宗教の現場を学ぶ」


5月13日、関西での定例会と勉強会を兼ね、釜ヶ崎でフィールドスタディを行いました。講師は26年間にわたって釜ヶ崎に住み、活動を続けられているカソリックの本田哲郎神父と、学生のときから釜ヶ崎に関わり、西成市民館でソーシャルワーカーとして働いていたこともある宗教社会学者の白波瀬達也さん。仏教者、キリスト者、NGO/NPO関係者、一般の方、合計26名が集まり、まち歩きをした後、西成市民館でお二人からお話をうかがいました。

白波瀬さん白波瀬さんは、釜ヶ崎の歴史や宗教団体の支援活動、セーフティネットなどについて、統計やご自身の経験などにも触れながら、参加者が釜ヶ崎の全体像をつかみやすいように説明してくださいました。飢えや寒さのために路上で亡くなるようなことはなくなったものの、「生きる意味」への乾きは未だに満たされていないというお話を、参加者は重く受け止めました。

本田哲郎一方、本田神父からは宗教者・支援者としての立場からお話をいただいたのですが、その内容は宗教者・支援者という土台を揺り動かすものでした。

「宗教者としての発想を卒業しないと、現実に困っている人たちに応えることはできない」

「自分が属している宗教の戒律などを気にしながら関わることは、その人をおちょくることでもある」

これらの言葉は、支援に関わる全ての宗教者が聞くべきもののように思います。

釜ヶ崎風景本田さんも、最初は炊き出しをしたり、毛布を配ったりという支援されていましたが、ある時、施される側の辛さに気付きます。それからは、彼らが尊厳をもって暮らせるように、仕事をつくったり、昼間の居場所をつくったりという支援へと移っていかれました。

驚いたことに、本田さんは「神様、助けて」とは、祈らなくなったそうです。祈ったって、誰が助けてくれるか・・・そんな言葉に、逆に宗教者の凄みを見ました。

質疑応答の一番最後に、いつか本田さんに会うことがあったら聞いてみようと思っていた質問をしました。「もしここに、イスラエル兵に息子を殺されたパレスチナ人の母親が来て、もう神様なんか信じないと言ったら、どう対応されますか」というものです。(同じ質問を、エルサレムにいるカトリックの司祭さんにしたことがあります。そのときの対話については、こちらをお読み下さい)

本田さんの答えは、普通の宗教者なら、口が裂けても言えないようなものでした。

「仕返しする方法を考えようよ。やられっぱなしで、それをニコニコと宗教で解決しようなんて、そのこと自体が社会正義に反するし、本当の意味でのいのちの大切さからみたら、何でも受け入れなさいなんておかしいと私は言いたいからね。だけど、仕返しして、また自分が殺人をおかすということだったら、全く意味の無い罰が来るだけ。溜飲を下げるような方法を見出していかないと」

ずっと虐げられ、我慢させられてきた人たち。この瞬間に、釜ヶ崎とパレスチナがつながりました。少なくとも、彼らにこれ以上の我慢を強いるのが宗教の役割ではないような気がします。では宗教の役割とは何だろうか、その場にいた人たちがそう考え始めたときに、ひとりの僧侶がこう尋ねました。

「本田さんがなさっているように、自分の信仰や価値を捨てて、相手に寄り添うこと。愛とか慈悲のためにどこかで自分の信仰を捨てること。その矛盾自体が信仰なのではないでしょうか」

本田さんは、その意見に大賛成だと言い、宗教の殻を破って、人を人として大切にする、それこそが私たちが求めるべき信仰のあり方なのではないかと答えました。

それから私たちは、暴力や怒りについて話をしました。良識的な方は眉をひそめるかもしれないような話です。でも私は救われたように感じました。白波瀬さんも「意味のある怒り」がセーフティネットをつくてきた部分もあるとおっしゃっていました。このときに話し合われた内容については、また別の機会に譲ります。

虐げる側も、虐げられる側も解放されるような「仕返し」ができないだろうか。この日から、ずっとそれを考え続けています。また同じメンバーで集まって、それぞれの仕返し案について話をすれば、なかなかいい案ができるかもしれません。(三村紀美子)

 

【中外日報5月25日号に取材記事が掲載されました】
 さすがの筆力でまとめてくださっています。こちらをご覧下さい。

 

【若い参加者の方から感想をいただきました】

今回のフィールドスタディでは随所で大変感銘を受けました。

まず、釜ケ崎の人たち。特に私たちに話しかけてきた彼らは私たちに壁を作らず飾らずに、そのまんまの自分で接してきてくれたことです。

社会の規則の中で培われた常識は、仮面みたいなものにすぎないと思いました。特に宗派におきましても、こうする・こうあるべき形式にとらわれています。釜ケ崎には、人間とは何か、生きることとは何かを突き付ける強力な何かがあると感じました。

そして、本田神父さまと白波瀬さんのお話と質疑応答から。こちらでも、宗教者が教義や信仰や価値の枠を突き破り、目の前の人と共に生きるための方法や生きがいを見つけていくことの大切さをひしひしと感じました。つい、感謝されることで良いことをしたんだという満足感に浸ってしまいがちですが、行為を受け取る側の方の気持ちまで考えることまでは考えもしませんでした。

私事ですが、社会人としてはまだまだ知識や経験も浅いです。しかし、今回このように現場を少しでも見て感じ取れたことは、大きな気付きになりましたし、今後も続けて行きたいと思いました。

そして、宗教・宗派の枠を超えた、本当に必要なものを深めていくことが、今の流れであることも実感いたしました。

このような機会に恵まれたことに、とても感謝しております。ありがとうございました。

合掌